地球上の生命の発生をめぐって、その宇宙起源説(パンスペルミア説)が、宇宙探査機「はやぶさ」の二回のサンプルリターンの成功も貢献して、しだいに現実味を帯びつつあります。そこで同説を敷延して宇宙を生命の母体と考えれば、宇宙の遥かどこかに生息しているだろう別の生命や人種も存在しているはずで、その意味では、人類の“親類”が宇宙のどこかで繁栄している可能性があります。そうした地球人と宇宙の誰かとの“親類”関係をめぐって、「エソテリック論」が開拓する独自分野の筆頭に挙げられるのが、人類文明の起こりへのこの親類関係そしてそれの拡大した “星” 際関係的探索、すなわち、〈宇宙からの影響や介入〉という観点です。
インファント人類
ただここで、そうした生命宇宙起源説から星際関係へと、地球離れした次元に一足飛びする議論に入り込むにあたっては、以下のような、ある種の自制的認識に心しておきたいと思います。
それは、そういう宇宙の探索や解明に関し、私たち人類が持っているその進展のための持ち札が実に限られたものでしかないことです。つまり、宇宙をなす構成物質や未解明な何かについて、人類の知りえている物質に限っただけでも、全宇宙に存在するらしいものの内のわずか数パーセントでしかないという心細さが推定されていることで、残りの9割以上の大部分はまったく未知であることです。
このように、私たち人類の知らない部分が圧倒的であるという側面から言っても、宇宙親類の中での当人類は、おそらく、発達の極めて辺境で特異なインファント(幼児)にならざるを得ない可能性が高いことです。つまりは、そういう人類が自ら作った、俗に言うETとか異星人とかという存在とは、そのインファントの自前発想である極めて稚拙なもので、そうした諸イメージには、おそらく計り知れない限界や歪みが潜んでいる可能性の大であることです。
そうした、言わば「幼児が大人を推し測る」といった地球レベルのたとえ話すら、圧倒的に矮小化されたものであるだろう宇宙次元にあって、もしそうした未知の対象を論じるとするなら、それはおそろしく限定的な次元を越えられないことを前提とし、そしてその結論もそこに留めておかねばならないものでしょう。
つまり、知りうる世界とは、知る能力の範囲内であり、その範囲の外は無きに等しいということです。
このように本稿では、人類文明の発生への星際的〈宇宙からの影響や介入〉という観点においては、この自制的認識を原則にして考えて行きます。つまり、SF映画に登場するような奇妙な人間風生物の地球への到来が想定されうるほどなら、それ以前のもっと原初的なその「影響や介入」がありえて当然のはずです。もしそれすらも感知できないのであるなら、それほどに私たちは正真正銘のインファントである証拠です。そして相手は、私たちにはほとんど解明されていないほぼ無限謎の宇宙からのものであるだけに、私たちの持ち前の概念では小さすぎてそれを捉え切れていない、とするものです。
ということはです。それは、私たちインファントがまだ認識しえていない「影響や介入」もすでにありうるということです。ということは、すでに私たちの身辺や、それどころか私たちの内部すらにも、そうした「影響や介入」が入り込み、さらにそれに終わらず、満ち溢れてさえいるかも知れないと想定されることです。従って、もはや問題はその有無一般ではなく、具体的にそれが何であり、どれであるのかということです。
以上、前置きが長くなりましたが、これからが本論です。
ETの地球存在は論理的帰結
今回、別掲されている訳読「新たな首領の出現」に以下のようなくだりがあります。それは、もし地球にまで到来する異星人が存在するならば、それは圧倒的に進んだ知識や技術も持っているがゆえで、仮に彼らが地球を乗っ取ろうとした場合、容易にそれができたはずですし、すでにしているはずというものです。ところが、少なくとも我々人類全体は、そうしたことはまだないと広く信じられているほど、異星人の存在は目に見えない――あるいはそうとされている――ことです。そこで考えられる論理的帰結は、すでに地球に到来している異星人らには、「第一義指令」があってそれを守っているというのです。
それは、彼らが「第一義指令」に従っているらしいからである。(略)そこには普遍的な鉄則があるように思われる。即ち、彼らは私たちの歴史に干渉し、私たちが彼らの出現を受け入れる準備ができるまで、公然と姿を現すことを許されていないのである。(略)彼らの正当化できる理由は、自分たちが地球出身であること、あるいは、そこに異次元的に出現することである。そのような超地球人とは、自然または超自然に由来する優れた非人間的存在でありながら惑星地球の先住民というものであろう。〔「牢獄惑星か、人類解放か」の節より〕
つまりこの話は、私たち地球人が認識していようとなかろうと、すでに何らかの形のない影響は及んでいるということで、ましてこの訳読書の著者は、到来したETの存在の姿が見えないのは、彼らがこの「第一義指令」をまもっているからというものです。
ここで注釈を入れて置きますが、この著者は他の章では、到来したETの存在は、その墜落機体の存在からして明白と記しており、そうした事実を隠している政府の問題を論じています(この問題を仮に「隠蔽問題」と呼ぶこととします)。
そこでです。次元はまったく身辺的ですが、いま私たち人間は、人間社会の規範として、大人は子供を保護しなければならない――子供を食い物にしない――ことを「鉄則」としてきています。それと同じく、この「第一義指令」とは、私たち人類が異星人よりそういう「保護」視をもって扱われているということで、彼らは、その実の姿を出来るだけ現わさないようにその指令を守っているという見方です。ゆえに、この論理的帰結に従えば、通説風な異星人像を念頭にそれを探しまわるのは無意味ということです。おそらく、地球的にはおそろしく長い時間をかけて――1万年だろうがだろうが10万年だろうが宇宙的には微々たるもの――、すでに彼らは地球に解け込んできているはずです。ゆえに、私たちには不可視なそうした可能性を前提とすれば、彼らによる〈不可視で無形な影響〉の発見に、私たちの全知全能を傾けるほうが現実的ということとなります。
ただしこの見方は、上記「隠蔽問題」という操作がないことを前提にした議論で、もしそれを含めて考えるとすると、最低でも、表向きの上記の見方を取りつつ、その背後で、隠蔽されている問題から目を離さないとか修正するとかの〈二重構え〉の慎重さが不可欠となることに至ります。
そこでですが、ここではまず話の錯綜を避けるため、以下、「隠蔽問題」はない――つまり身辺の事象を自然現象として〈一重に〉受け止める――ものとした考えの範囲で議論を進めてゆきます。
すると、出土品という地上での運や偶然頼みの従来の考古学的発見はそれはそれとして尊重はするものの、宇宙からの影響はすでに無形に作られてきていると考えられるだけに、そうした考古学的方法には限りがあることとなります。そして、出土といった物的証拠への依拠とは別に、それはもう私たちの内部、つまり意識構造にすら入り込んでいる要素でさえありえ、その探究――つまり無形な心的出土――が極めて重要ということとなります。
ゆえに、その探究の現場は、もはやモノの世界ではなく情報の世界で、その意味では、モノの証拠を求める方式とはすでに時代物で、それでは開けないより高次元の世界が問題なのであり、それは《広い意味の「情報」》を通じてのみ得られるということになります。(ここで狭義の「情報」とは、今日のIT世界でのそれで、いわゆるデジタル情報のこと。)
ことに、近年の量子物理学の進展に伴う新たな学的状況――これまで物理学者が厳密に従ってきたモノがもつ歴然とした根拠性というものが、少なくとも量子というミクロの世界では、もはや客観とのその根拠の原則概念が揺らぎ、主客が混然と入り組んだものとなってきている――をかんがみる時、そうした学的発展は、宇宙からの私たち内部への影響の一画がそのような形で出現してきているものと考えられるものです。
つまるところ、宇宙からの影響を突き止める方法のひとつとして、私たち自身が、比喩的には〈自らの内なる声を聞く〉ことが、不可避的かつ未来的に有効となってくることとなります。
日本的伝統に潜む宇宙
こうした予備的考察から、ここで「日本エソテリック論」の現場へと戻ると、前回に挙げられた設問Aの、「天孫降臨」とか「竹取物語」がなぜ生まれたのかとの問いについては、仮にそれが出土品に基づく物的証拠を持たないもの――つまり「無形」のもの――であったとしても、その語り継がれてきたその中核テーマである天なり月なりとの宇宙との関係自体の中に、その出自――日本的星際関係――が表わされているとの見方が導かれます。
たしかにそれは、いわゆる物的証拠を欠き、従来的にはその発掘が望まれるとされるものではあります。しかしもはや、そういうモノ基準の論理ではなく、上述の広義情報基準の論理に立って、たとえば、世界の神話やお伽話には、同類のストーリーの枚挙には事欠かないことをもって人類の「母型」を見出せるとの文化人類学的な定説の一つの根拠をここに発見できます。つまりそこで「母型」と呼ばれているものと、上記の「宇宙からの私たち内部への影響の一画」とが、結局、同じものについて論じている可能性がおおいにあるわけです。言い換えれば、日本の伝統としてその神話やお伽話を尊重する立場も、それを意識していようとなかろうと、冒頭に述べた地球生命の宇宙起源説(パンスペルミア説)に立っているということとなります。
宇宙の影響の東西差
そこでやや乱暴に話を拡大すれば、ことに仏教において、独特な宇宙論が繰り広げられているその思想の出どころも、この宇宙からの影響の人間内部への痕跡が現れたものと言える可能性が大いにあると言うこととなります。
それが、主にインドを中心に、自我の根源の追究から、瞑想やヨガを通じて逆発見してゆく術が開発されつつ、かく自己深部に潜む外的世界との関連に日の目を当てる技法が習熟されてきたのでしょう。そして仏教では、そうした思念の遡行=ノンローカライゼーションを「縁起」と呼んでいるわけです。
ここで想像の度合いを上げてみるのですが、こうした宇宙からの働きかけがあるなら、そのセンターなる〈宇宙司令部〉は、地球への働きかけに際してはどうも西洋と東洋を別々に攻略する作戦をとったようで、西洋には、一種、物的視点を中心に攻め、東洋には情報的視点を中心にしたようにも考えられます。
この東西差、あるいは、西洋の父性や父神性に根差す文明、東洋の母性や母神性に根差す文明との解釈をここに再考してみれば、以下のような前回提示の設問、I、J、Kにも関わる視点にも連なってきます。
I. ひるがえって、具象発想の西洋、抽象発想の東洋との対比。
J. あるいは、松岡正剛の言う「因果律と想像力」の対比。
K. そして、「父なるもの・父神性」と「母なるもの・母神性」。
ともあれ、その〈宇宙司令部〉は、西であれ東であれ、父であれ母であれ、あるいは、やがて地球上の科学が発見してゆくだろうことを見越した、電界のプラスとマイナス、磁界のN極とS極、そして今日的には、量子界のもつ右スピンと左スピンといったものを念頭に、世界の根源を対立的な二要素――つまり双対性という創生の原理――で形成するという全宇宙共通の摂理を、その隅々にまで行き渡らせているかのようです。
さてここで、以上の「隠蔽問題」抜きで考察する立場を維持してきた現場から日々の現実世界に戻るのですが、そこにおいては、その隠蔽があるのは確からしいとの「二重構え」の姿勢は、上述のように、「最低」の身構えであります。
こうした二重構えが避けられない今日の常態世界においてよく目撃される光景は、そうした二重構えに立ってその公的言論世界を「隠蔽に目をつぶる偽の現実宣伝者」と指摘する人たちを、そうした公的言論界は“逆切れ”したかのように「陰謀論者」と呼んで異端者とし、公的言論世界からの排除、孤立をさせようとしています。
「日本エソテリック論」の強みと限界
ともあれ、そこで重要なのは、とりあえずは無難に「隠蔽問題」に触れない立場を取るにしても、隠蔽し切れない形のない《星際的〈宇宙からの影響や介入〉》には常にさらされているわけで、世界中の誰といえども、そこから無縁でいることはできないことです。
ゆえに私は、上に述べた「日本エソテリック論」は、世界の中では比較的ローカルな位置にある日本についてのもので、こうした「隠蔽問題」から実際上、最も距離があり、そこを幸運なテコとして、この《星際的〈宇宙からの影響や介入〉》に、実務上、もっともアプローチしやすい位置にあり、大いに有効な思考法になり得ると考えます。
また、さらに奇抜な論点を取り上げれば、今号に掲載の二つ目の訳読、「人喰い異星人」とのぎょっとする題の章があります。それはこの星際関係での一種の「いい者とわる者」ストーリーで、私たち東洋人の眼には、その「隠蔽問題」の主舞台である西洋文明上の、いかにもその血で血を洗う話にあふれた光景であるかに映ります。その点、ひとつ追加点として、日本はそのまがまがしさに距離をおく、一種の解りやすさを持っていると自認してもよいのではないかと思います。
もっとも、厳密には、相対的なものであるどころか、いっそう下敷きにされている話にすぎないことでもあるのですが、一種の最底辺から見える真実の光景でもあるようです。
【まとめ読み】
(その1)あり得るか「日本エソテリック論」
(その3)原爆はなぜ日本だけに落されたか
(その4)「包摂と排除」を越えて
(その5)日本的伝統とは何であったのか
(その6)「局地」的で「非局地」的な日本