この作品は、2016年12月から2年間にわたり、「両生“META-MANGA”ストーリー」に連載された「MOTEJIレポート」を統合したもので、「両生図書館」の蔵書に加えました。当作品は、早死にしたMOTEJIが、現世の旧友MATSUに《META交信》してくるレポートで、場所や時間を超越したその世界から、現世に捕らわれている友人に、そういうMOTEJIにしかできない視界――現世人類中心主義を脱せよ――を提供しています。
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No. 8 《知・エネルギー融合子》 = 《氣力》たる存在として
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俺は先刻、名を改めてMOTEJIにした。じつは、地球で死んだばかりで、まだ、この宇宙霊理空間にやってきたての新米だ。
地球で生きていたころ、その末期にはひどい認知症をわずらって、それはもう惨憺たるものだった。自分の内部世界は健全に駆動しているのに、外界との交信が次第に役に立たずになっていった。最後はまるで、水槽に密閉された一匹の金魚同然だった。家族や友人たちは、ガラスの向こうから俺を覗き込んで、いろいろ話しかけてきているのだが、俺はそのこっち側で、ただ口をパクパクさせているしかなかった。そういう自分をさらし、かつ、見ていなきゃならんのは実に苦痛だったね。一種の生き地獄だね。しかも、滑稽でさえもあったな。だって、自分で自分の便の始末すらできないのだからな。赤ん坊ならこれから成長する楽しみもあってオムツ姿もかわいいが、そんな俺には将来もなく、赤ん坊以下のまるで大きなお荷物同然と思えたよ。
それにしても、人間世界ってやつは、なんとか満足して生きてきた人生の終幕に、よくもまあ、ああした哀れな結末をつくっていられるもんだと思うよ。
それをいわゆる病苦で片づけてしまえるならそれまでだが、だとしても、能天気にもほどがある。
本人にはそれまでの人生にふさわしい尊厳のある最期と、周囲にはそこまでの泥沼の負担がのしかからないよう、その予防の優先は言うまでもなく、健康な高齢者を新たな人的価値として生かしうる、明るい長寿社会を真面目に組み立てるべきだと思うよ、心底。
最低でも、長寿人生後半期における、生きるということへの意味付けが極めて寸足らずであることを、社会をあげてなんとか再考すべきだ。
俺が体験した家族にもまた社会にものお荷物体験を、誰にだって二度と味あわせたくないと、誰もが思いながらここやってきている。だからこそ、その実体験の苦痛がゆえに、むしろ認知状態に逃げ込んで自分を閉ざすしかない悪循環メカニズムが働いてしまっているんだよ。社会的にも脳機能的にも。
ともあれ、俺はことごとさようにその大惨劇から脱出し、この伸びのびとした空間にやってこれた。じつに清々しい気分だよ。
こう言うと地球では、ブラックジョークかと受け止められかねないが、なんでもっと早くやってこなかったかとさえ思うよ。もしそうできたなら、女房にも、あんなにさんざんな苦労をかけなくても済んだのに。
ところでね、ここにやってきて、まず、まっさきに誰に迎えられたと思う。
それはね、ほぼ三十年前、四十になったばかりで先に逝った、あのNさ。なつかしがって、俺に飛びついてきたさ。誰よりも先にきちまって、えらく寂しかったんだな。奴は事故死ということにされているが、あれは不本意だったって。でも彼は、あれはあれで、余計な苦労はしなくですんで、ある意味では幸せだったかもと言ってるよ。驚いたね。
そんなところなんだよ、ここは。彼がそう言うのもそれは確かだと、もう実感し始めているね。だってそうだろう、地球はどうもおかしい。おかしすぎる。なんであんなあほらしい仕組みをかかえて、誰もが黙々と従っていられるのかと思うよ。
それに比べりゃ、ここはまさに天国だ。いや、天国以上の浄化世界だ。
なぜかって?
それはね、あらゆる嘘偽りの化けの皮が、ことごとくはがされるんだ、ここでは。
そこでなんだが、すでにこうしてその宇宙にやってきている俺としては、もし宇宙にそうした生きた意志があるとするなら、どうやら俺はもうその一部になっているわけだ。なんというのだろう、そうした大生命体の一細胞のそのまた一細胞といったところだろうか。
そしてここで再会したNをはじめ様々な同朋もその一細胞同士だ。そうしてだな、俺はここにやってきて、そうしたたくさんの仏たちに会い、まさか自分が神だとは言わないが、地球上のあまたの災いや嘘八百を見下ろせる天からの視点にあることは確かだと感じている。
ところで、なにごとも金次第といった地球上の常識に関してだが、この『MOTEJI越境レポート』も、金にからまずフリーで発信されている媒体であるうちは、それなりに現実を伝えている可能性のある領域に属している、とは言えるだろう。
しかし、それが何らかの理由から、もしマネーがからみ始め、いかにも立派な風采をもつようになった場合、これも、そうした《現実「非現実化」装置》への変貌途上にある――少なくとも、そう白羽の矢が立てられた――と考えたほうがいいだろう。
そもそも宇宙にマネーなぞは関与せず、それはえらく地球的な物象化現象の産物で、そういう万事金次第というのは、まったく非宇宙的な局地的仕組みなんだよ。だから、フリーであるとは、そういう地球的引力から脱出する、第一の宇宙速度だと思う。あるいは、そういう宇宙と共鳴する、必須な固有振動数と言うべきか。
やってきたこの宇宙霊理世界とは、まずはそういったところだね。
他方の地球では、イギリスのEU離脱だのアメリカの大統領選だのと、相ついでの大番狂わせが生じているように、既成の仕組みが機能しない、まさに予測のつかない混迷の時代に入りつつあるかの感が深い。
そんな時に、この宇宙世界にやってくることとなったのも、何かのめぐり合わせなのかもしれない。
かくして、人生を全うしつつある仲間たちの間で、俺が先んじてここに来ちまったが、その先陣取りの利点を生かし、まあ斥候情報とでも言おうか、微々たるものながら、新たな役割を引き受けてゆきたいと念じているところだ。
言うなれば、時代はまさしく、脱地球レベルに入っているということだな。
今回は、以上のようにほんのさわりで終わってしまうが、これで第1号の『MOTEJI 越境レポート』を終えたい。
この宇宙霊理界にやってきて以来、正直、驚かされることばかりが続いている。いったい、何から話せばいいか、その選択にすら戸惑ってしまうほどだ。むろんそれは、この世とあの世の違いなんだから、並みの具合には行くはずもないのは百も承知の上なのだが、それにしても、仰天させられてばかりでいる。
しかし、そうとばかりも言っておれないので、今回は、今の段階でつかみえてい限られた範囲なのだが、そのうちの横綱級のことをひとつ取り上げてみたい。
それは、地球では「直観」といわれていることに関してで、実はそれは、地球と宇宙霊理界をつなぐ「超高性能宇宙スマホ」であるようだという発見である。しかも、それはもともと私たち自身のうちに備わっている《内臓・超高性能宇宙スマホ》でもある。言うなれば、そのウルトラ・ハイテック・デバイスを、私たちは生まれつき、すでに持っているということで、それを活用しないなんて、何たるうすらトンカチか、という話なんだ。
思い出話をすると、俺は子供のころ、自分の頭に突然に浮かんでくる「アイデア」――漫画描写で言えば頭の上の電球がぱっと灯る――が、一体どこからやってくるのだろうかと不思議だった。むろん後になって、それは「直観」とか「第六感」とか言われている類のものだと知ることにはなるのだが、たとえそうだとしても、それは、いぜん謎であるその出どころを説明したことにはならなかった。
さらに、より後になって、脳科学者らはそれを、「クオリア」とか、それを訳して「質感」とかとまた別の名称を与えたりもしているのを読み聞きしたりもした。だが、それだって、名前付けのさらなる上塗りにすぎず、俺の疑問を解いてはくれなかったね。
そうこうしながら、その疑問への解答については時間切れでおあずけとなり、そのままここにやってくることになっちまった。しかしね、ここに来れたおかげで、その謎の輪郭が、なんとかつかめるようになってきたというわけさ。
これもこれまでだけでは、まだほんのさわりしか解っていないことだが、どうやら地球上の人間たちは、物体と精神とか、物質と心といったものを、互いに相容れない、別のものに分け過ぎている。頑迷な二元論だ。むろんそれらは確かに、両方の末端同士では、相容れない状態をもっているのは確かであるが、その両者が接し合うあたりでは、その明瞭な線引きは無理で、むしろ連続的ですらある。つまり、その境界には両属する領域があり、むしろその両属領域の方が、エリアとしてもはるかに広大であるようなのだ。それこそ、宇宙の96パーセントがその領域で、それは文字通り、新たな「知的ホライズン」だと思う。
そもそも、俺にしてみれば、いわゆる「この世」と「あの世」ですら、こうやってやって来てみればちゃんと繋がっていたのであり、俺は俺として消滅しないで続いている。「死ねば一巻の終わりだ」なんて、何とぼけてんのって気分だね。
むろん、いわゆる命というやつは終わらせてしまって、もはや身体の狭義の物質面には頼らぬ存在となったのだが、それとて、その両属する多くの要素の内のわずかなひとつを亡くしたということに過ぎず、それ以外のものは、ちゃんと続いているのだ。
想うに、どうもその「命」というしろものには「時間」というものが深く絡んでいるようなのだが、この点「命=時間」については、また題を改めて話してみたいと思っている。
さて、ところでだが、地球の読者たちは、俺のこの話を、あるサイトの記事を通じ、一種の「フィクション談」として体験しているはずだ。
本来なら、俺が直接にそうした話を文章にすればことは簡単なのだが、それがそうも行かない。そこには、たとえば地球上でも、国や地方によってさまざまに異なった言語があって、いわゆる「言葉の壁」が立ちはだかっている。それに類したものが、この世とあの世の間にも、次元を異にする問題として存在しており、一方から他方への伝達は容易ではない。つまりそこには、地球上でいう翻訳のような作業が必要なのだ。
さらには、地球では、その容易でないことを理由に、極端すぎるほどの隔離の線を引いている。確かに、いったんその線を越えてしまえば戻ることは不可能だし、この世の存在からあの世の存在を見ることはできない(仮に見えたらそれは幽霊ということとなる)。だがしかし、ここにやってきて俺が発見していることは、その両世間が完全に行き来の不可能な不連続な世界ではないということなんだ。ことに知性の面では、両世界は連続体といってもいいほどだ。俺に言わせれば、地球人は、そうした「不連続観」を改め、その世界観上の自閉症から脱皮すべきなんだよ。
でもその一方で地球では、尊い人を亡くした場合、その故人が「心の中でまだ生きている」といった表現もする。これなどは、心情的ながら、その連続性を認めていることだろう。それに、文化とか伝統とか伝承といった人間社会の精神にかかわるものは、そうした領域によって支えられてきているものが多いのじゃないか。
そこで俺は、ここに来て学んだ自分の言いたいことを、ある回路を通じて流そうと試みてきている。
それは、このサイトの書き手、つまり俺の翻訳者が、彼の一定の条件が整った――いわばある頭の冴えた――時に、この俺のメッセージを送ると、彼にとってはそれが彼の意識にいわゆる「直観」として作用し、その俺の言いたいことを感じ取ってくれているという回路だ。
つまりは、俺が子供のころから不思議だった、あの頭の電球が灯るその電流は、こうした回路を通じて流れてきた送信側と受信側の間の遣り取りだったんだと、ようやくにして覚ったからなんだ。
そう、嬉しいことに、そうした回路をつうじて、俺たちはまだまだ、遣り取りが可能ということなんだ。
通常、地球人たちは、その頑迷な二元論に立って「科学的」であろうとするがあまりに、自らの物心の繋がりを絶ち、この回路による遣り取りの可能性を空論視すらして、それを真剣な対象に含めようとはしない。
一方、俺の翻訳者のように、そうした二元論の排他性や、自分の直観の有効性に気付いた人たち、さらには、意図的に、そうした「直観」の感度を上げる努力や頭の切り替えを行っている人たちは、俺が試みているような、別世界からの通信――知的テレポーテーション――を受信可能としている。
まがい者は別として、俗に「霊媒」と呼ばれている人たちもその一種だろう。
そういう意味では、「非科学的」なそこにこそ、超最先端の「科学」の領域があるといえるだろう。だからこそ、それは「新たな知的ホライズン」なのだ。少なくとも「直観」というその「知的テレポーテーション」は、そうした「新たな知的ホライズン」の中心的デバイスとなることだろう。
それに、こうして俺がここにやってきて覚ったことのうちで、もっとも声を大きくして指摘したいのは、いまや地球上は、そうした物心二元論がゆえの自縛により、自分たちの将来への可能性を自ら摘み取ってしまっている、ということなんだ。
つまりは、上に述べたように、その「超高性能宇宙スマホ」は、誰でも使用可能な私たちにすでに「内臓」されているデバイスであり、私たちは、その自身の機能を用いて、その「直観」をふんだんに働かせ、これまでの拘束された自分を解き放ち、飛躍的に拡大された世界観やそれに応じた能力を発揮しうるということなんだ。
これもまた追々話して行きたいことなんだが、今、地球上では、スマホという高価なデバイスがもはや必需品となりつつあり、しかもそれを使うにはその通信費が馬鹿にならない生活費上の負担となっている。そして、人と人との社会的つながりまでもが、そうした諸出費を前提としたそうしたデバイス・ビジネスに過剰に頼らざるをえない社会となっている。そんな、物や金頼みの世界って、どこかがおかしいのじゃないか。
言わば、収入を得るための日々の労働に加え、その収入からのそうした少なくない出費という、二重の金銭的拘束によって、私たちの人生はもう、がんじがらめなほどに縛られてしまっている。
私たちが、自由に健やかに生きたいとする当たり前の願いを人質にして、儲ける少数がいるシステムなんて、そもそも、誰のためのシステムなんだろう。
そこでだが、上に述べた《内臓・超高性能宇宙スマホ》は、購入の必要もなく、通信費も必要としない自前の能力だ。しかも、その能力は、地球上の私たち相互間ばかりでなく、地球と宇宙霊理界との両属世界との交信をも可能としている。
そしてより重要なのは、それが、私たちの人生に、拘束ではなく、自由解放をもたらすものであることだ。
俺としては、この《自前デバイス》の可能性を是非とも地球へ伝えたいのだ。
そしてその普及は、科学における物理学上の境界をも変えてゆく――「非物理的物理学」っていったような――可能性をもはらんでいるとにらんでいる。もはや最先端の素粒子物理学領域では、いわゆる客観と主観といった区別さえ無意味となりつつあるのだ。
地球時代、たしか聖路加病院の日野原重明先生がそう言ってたと思うのだが、「命は時間」だった。あの先生はまだ生きてられて、もう105歳にもなっているはずだ。たいした長寿だしその活躍ぶりだ。
一方俺は、その命を早々と収めちまってここに来てMotejiとなり、いまは、その「時間」の無い生活をエンジョイし始めている。ただし、それが「生活」と言えるものかどうかは判らん。
ともあれ、時間というものが無くなってみて初めて、「目からうころが落ちた」感じを多々みつけている。そう胸を張って言えるのは、ここに「先に」やってきた、そういう強みがゆえだろうね。
思い起こしてみれば、時間とは、何とじれったく、涙が出るほどにいじらしいものであったのかということだ。だってそうだろう、たいていの並みの人生では、待ち人は来らず、学校や会社ではやれ遅刻するな、やれ時間を守れとせき立てられ、挙句の果ての、後生大事とまでしてきたはずのその時間からも「はいお終いとなりました」と宣告されて、この早死にという始末じゃないか。
だからね、そこでひるがえって考えてみれば、時間があるから動きというものがあり、動きがあるから距離というものがあり、距離があるから大きさとか空間というものも同時に生まれ、位置とか量とかといったもろもろも生まれてきたという事に思い至るわけさ。
だから、その元の時間さえなくなってしまえば、こうした間尺のあらゆるものがあり得なってしまう関係だったということなんだな。
と言うことは、時間がそれらすべての生みの親で、ひっくりかえせば、悪名高き「下手人」ですらあるってことだ。そこで、時間さえひっ捕らえてしまえば、量や価値の大小もなくなり、未来も過去もなくなって、嘘や偽りさえ皆無となる。ひいては、お金といった価値の尺度や貧富さえも空虚なこととなり、欲望すらも無意味な行いとなる。
いうなれば、地球上の悲劇も喜劇も醜聞もロマンスも、あらゆるものが、この時間という舞台があってのドラマであったということだ。
だがね、その地球を後にしてきたここでは、すべてが今であり過去であり未来であり、すべてがここであり、向こうであり、そして遠い彼方でもある、ということなんだ。あらゆる「もの」や「こと」がこの瞬間に収れんし、そして無限に拡散してもいる。なんという違いだろうというわけなんだな。
こうした「時を忘れた存在」だと言ってもまだ忘れ切れない、そんな無量な「対比」が、生きていることと、死んだのちのこととの違いなのさ。
俺は「その境目」を通過して以来このかた、この途方もないギャップを実体験してきている。
どうだい、凄いことだと思わないか。
さて、そこでなんだが、出来ん坊主の俺なんかがこう言うと、頓珍漢による「見当外れの妄想」とさえ聞こえるだろうが、今日の最先端の物理学でいう素粒子とか量子といった「粒/波一緒くた存在」すら、俺に言わせてもらえば、そういう《時間のトラップ》に捕らえられた者たちがゆえの話であり、そうした寸足らず世界からのメッセージに過ぎないと、独りほくそ笑んでいるということなんだ。
つまり、そうそうたる科学者たちが、現実世界の元の元をつきつめて行ったその先で到達した、その一ミリの一千万分の一とかそれ以下の、もはや《物の寸法》といった概念すらなじまない、まさに《元源世界》で発見したものは、もう、地球俗界の考えではまったくつかみきれない、それこそ、粒でも波でもあり、そしていて、そのどちらでもない、もはや「もの」と「こと」の区別さえつかない、そうした何かなんだ。
そう、それはもう「形而上な存在」というしかない、すなわち、俺のいう《メタ世界存在》っていうやつさ。
だからこそ、俺はここにやってきて、その《メタ世界存在》をこう見ているんだ。
すなわち、《メタ世界存在》というのは、それこそが霊の世界であり、真の世界であり、その世界をつかさどる「ことわり」が霊理であり真理じゃないかって。
これはいわゆる言葉の「トートロジー」ではないね。そうじゃなくて、これまではふたつ別々のものとされてきたことが、実は一体のことだったという発見なんだ。
言うなれば、ふたつに分けて考えてきたその考え方が、見当違いだったという気付きなんだな。
俺がなんで、「目からうろこが落ちた」と言っているのか、見当がつくだろう。
そういう次第で、そうした二つに分ける「二元論」に立って言えば、俺は俺のうちの、命という時間部分を亡くして、その残りの部分のみになって、ここに居るってことになる。
だが、ここにやってきて判る実感に立てば、その時間という「ローカル要素」を失くして、それほどに《普遍化》が成ってきたということなんだ。
むろんここには空気すらないが、ここでできる深呼吸の、なんと清々しいことか。もはや、物でも事でも、まして人でもないんだからね。
心底から勧めたいね。みんな、早くここにやってこいよ、ってね。
むろん、命やそれを演じさせる時間も、それはそれで美しいが、そんなウエットな美ではない、ここにしかない美がある。それはもう、膨大で透徹していて、そりゃあ、すさまじい美さ。
どうだいみんな、この清々しい世界で、その美をつまみに飲んで、大いに気勢を上げようじゃないか。
そうしてね、さらに秘密を明かして言えば、ここには、ここにしかいない「美人」もいるね。
そこでなんだが、そういう「美人」の話に入る前に、ちょっと言っておかねばならない説明がある。
つまり、そういう下手人たる「時間」って奴だが、それはどうして生まれたんだろうという疑問への俺なりの考察だ。
どうもそれには、この地球という惑星の《回転》、つまり、それのもたらす《周期》というものが原因ではないかと思っている。
すなわち、地球に自転とか公転があるから、一日とか一年がある。もし、そうした回転運動がなければ、同じ状態が戻ってくるという「一回り」、すなわち、周期という概念も生れようがない。
むろん、そうした概念どころか、昼と夜、夏と冬という違いも存在せず、昼なら昼のまんま、冬なら冬のまんまの、常に同じ状態が続き、変化や刺激といったものの生じる理由もまったくなくなる。
そうした世界において、そうした《周期》がつくる微細から巨大にわたる変化や運動が生まれ、あげくは、それらが結集して、いわゆる生命の、その原初の種のようなものも、そこから発生してきたのではないか。
したがって、こうした回転や周期――別な定義から言えば、振動や振幅――が、「生」の世界と「死」の世界を分けている原因であるということとなる。
そして、生命とは、そういう回転や振動――いわばそういう《繰り返し》――から生まれた無数の運動の集成体であり、それを、どこまでも尊重し、それに則ってゆくことだろう。そういうウエットさや優しさが、奥深く地球的なことなんだろう。
思い起こせば、暮らしや家族、あるいは学校や仕事も、そうした《繰り返し》の王国だったね。正直いって、そりゃあもう、ウンザリさせられるほどに。
そこでまあ、あらためて俺様の存在意義を披露させてもらえば、そうした「王国」には、専制や腐敗や堕落や抑圧がつきもので、この《非生命》の世界からの透明な声を《対比》させねばならん、ということかな。
そこでなんだが、こうした宇宙霊理界に居続けていて、その奥にしだいに見えてきたこれまた興味深いことがある。上で言った「美人」にも関わる話だ。
それをこう言うと、地球の日本に生死した俺には、何やらそうした東洋の古典に舞い戻ってきたようなどんでん返しにも聞こえるが、この《非生命》世界にもあった「陰と陽」とでも表現される、何やらそうした《対》となった組み合わせだ。
それを「プラスとマイナス」と言い換えれば、二元論に固執してきた従来の科学者たちには親しいことなんだが、この「陰と陽」という《対》は、二元論的二要素というより、むしろ、生命でいう雌雄というのに近いもののようだ。
まさか、宇宙にも男女の「セックス」があったということではないだろうが、そういう《対》なす要素の結合があるということなんだ。
「真理は一つ」といった観点すらも単純すぎる、《対》なす要素の均衡状態といったようなものなんだろう。
俺のいう「美」も、そんなところに絡んでいる。
ともあれ、この先は、また追ってレポートしてみたい。
俺は、地球を後にしてこの「あの世」にやってきて以来 Moteji をやっているのだが、ここでは、既報のように「目からうろこ」の経験をいろいろさせてもらっている。そしてさらに、その「此岸・彼岸」級のどえらい違いを物語る、これまた新たな「目からうろこ」に出会っている。
それは、前回のこのMOTEJI 越境レポートで予告したように、地球の東アジアの伝統でよく出くわす「陽と陰」とでも言おうか、この宇宙霊理界にある一種の《対》なのだ。そしてそれは、地球生命でいう「雌雄」とか「男女」の違いにも似て、何やら「セックスじみた」とでも表現できそうな、対交換関係がありそうな代物なのだ。
同じような対の概念と言えば、地球上でのもっとお堅い自然科学の分野では、プラスとマイナス、数学記号で言えば+と-がある。この対の概念は、地球の現実界では、足し算と引き算という形で、実生活にも完璧に定着しており、ことにお金の世界では、この対概念がもたらす増減意識あるいは損得勘定が君臨した帝国が、まさに世界の津々浦々までに浸透、支配している。
俺は、その地球を後にしてここにやってきて、そういう地球的「対」に似ていながら、しかし、はるかにその比ではない、もう一つの《対》に出会っている。
というのは、まずそれに気付いたのは、全宇宙にも通用する普遍言語とされている数学において、その一連の記号の中にある「i 」、すなわち「虚数」といったものが、他とは違ういかにも独特の働きをしている気配を見出した時だった。
まあ、思い起こせば、この「i 」に最初に出くわしたのは学生時代であったのだが、正直なところ、当時のそれは「解りにくいな」程度の意識で、言わば、試験対策レベルでお茶を濁してきたくらいの受け止め方だった。
それが、ここにやってきて、そのとてつもない違いのあれこれに接しているうちに、地球でいう物理学、ことに素粒子領域に出てくる数式の中で、この「i 」に、ふたたび遭遇しちまったというわけさ。
つまり、その物理学でも先端領域で活躍する、えらくお頭のいい連中が使う数式の中でそれに出会い、相変わらずとんと理解はできないものの、何やらそこに、そうした違いを説明しそうな「何かがある」と、鼻をきかせるようになってきたというわけさ。
こちらも、素人なりに頭をひねらせてそれを推理すれば、そうした連中でさえも、結局、自分らで説明のつかないものを、すべてこの「i 」という魔法の記号に預け切って、互いにそんな申し合わせをしてもたれ合っている、ってな具合に、ここにもそんな、何とも俗っぽいところがありそうだ、とにらんだわけなんだな。
つまりこの「i 」にしたって、それは「imaginary」つまり「想像上の」から来たもので、「1や2」とか、あるいは「+とか-」とかといった、「実在上」の概念とは根本的に区別されるものであったはずのものだ。
即ち、そこは数学という理屈の世界であり、その「i 」については、「i 2=-1」などと、まるで人を喰ったかのごとくに、高尚に定義されているのさ。
俺に言わせれば、この定義自体からして曲者で、俺が理解できる通常の数学でなら、二乗したものはすべて+になると定めておきながら、この「i 」に限っては、それが-になると「定義破り」をしているという都合のよさだ。つまり、説明のつかないものにそういう定義を与えて謎をかけ、なんとか体裁をつけている、といった風に俺には見える。
そこで俺はね、この「i 」の出没する領域こそ、そうしたお偉い人たちでも手の付けられない未知の謎の巣窟にちがいない、と勘ぐっている次第さ。そして、その手の数式とは結局、そういう未解明の世界を示す手の込んだマジックに過ぎず、俺としては、そのマジックワードが表示する未解明世界を、この「あの世」にあってなら、その棚上げ同然状態から引きずり下ろせるとにらんでいるわけさ。
つまりだな、結局、そのマジックを解く鍵が、上で述べた《対》であり、「陽と陰」の世界じゃないかと踏んでいるのさ。だってそうだろう、「i 2=-1」などと、本来ならプラスのものを無理やりマイナスにしなけりゃならないほどに、そこには、《逆転》を必要とする関係があるのだろう。
東洋の伝統哲学では、物の本質は「陽と陰」からなっているとされている。この哲学を借りていうなら、そういう《逆転》の使命をおびている「i 」は、まさにこの「陰」に当たるじゃないか、というわけなんだな。
量子物理学者のボーアなどは、東洋の「陰陽思想」にヒントを得て、「相補性」という、相いれないはずの二つの事物が互いに補い合って一つの事物や世界を形成している、という考え方を提示しているようだ。これなんかは、俺がここで体験している世界を、まあ、いい線でとらえていると思うな。
ただ、俺に言わせれば、「相補」でなく、「相一」ということなんだが。
そこでなんだが、ここで合わせて触れておきたいことがある。それは、前回レポートで、時間の無い世界を取り上げたが、上記のような数式に必ず含まれている、もう一つのけげんな要素に「微分」があるということだ。
そもそも微分とは、運動、すなわち、時間に伴う物体の動きを、そういう数学的手法をもって固定化するテクニックであり、俺の見るところ、時間要素を極小化することで、事実上の、時間を除去している数学的操作であるんだな。
ちなみに、物理学者は、「電子を観察すると、電子の波は収縮する」といった、何やらもって回った言い方をする。これなども、「観察」という《時間の断面》を取るために、時を極小化、すなわち「収縮」させている、ということなのだろう。言うなれば、それによって観察しづらくさせられている、《時間》の要素を取り去っている、ということなんだろう。
そういう次第で、確かに数学上、「i 」を含んだ数式は、その独特な定義によって、数学的にはそれなりの理屈の通った専門世界を作り上げているようではある。ただし、俺のような出来ん坊頭の門外漢には、どうもその世界には付き合いかねるし、もっと別の見方ができそうだ、というわけなのさ。
そこで、俺が扱える世界でいえば、そうした未解明分野である「i – 世界」全体を「陰」と総称し、地球上にあるものとは異なる次元が丸ごと支配している、一種《逆転》めいた世界がある、という風に理解したらどうなんだろう、というわけなんだ。
そしてその《逆転》めいた「陰」の次元が、その他の「陽」の次元と対応していて、なんともセクシーな「対」となっている。そしてそこでは――「もの」と「こと」の区別もなく、主観と客観も確率の雲のなかにあって――、互いに強く求め合って、《合体》さえし合っている、そういう世界なのだ。
さて、そこでこの《合体》なんだが、それは、地球時代の「雌雄」や「男女」の交わりにも通じる、対をなす異種同士の融合作用であり、地球上ではそれが、新生命の誕生という創造のプロセスであったように、宇宙霊理界でのあらゆる事象の《生成から死滅までを瞬時かつ永遠に成し遂げている》本質の在りようではないか、と見ている。
また、こうした俺の考え方を、飛躍とかトートロジーと言うなかれ。むしろ、そうした、飛翔感、瞬時感ある発想を、宇宙霊理的ととらえるべし。
そういう次第で、この宇宙霊理界では、「セックス」とは、生成も死も、一瞬も永遠も両義的に意味する「エロスでありタナトスでもある」在りようじゃないかととらえているわけなんだな。
俺はいまここにあって、しみじみと噛みしめている。地球時代、「脳天に突き抜けるような」文字通りいかにも生々しいエロスセックスを体験しつつ、そこに一種のタナトスも味わっていたことを。そこには、生命の側から触れた、エロスとタナトスの両義性が確かにあった。そして今度は、その命をまさにまっとうして至ったこの世界から、その両義性を別の側から体験している。そうなんだな。このどこにあっても対をなして引き合う力の存在、これこそが、万事の本質なんだなと。
今回は、前回以後につかめてきたことを伝えたいのだが、テーマとしては、前回の「宇宙版セックス」と題したレポートの続きとなる。しかも、前回がそうとうに理詰めであった恨みを取り払い、今回の話はむしろ具現的でもあるかと思う。
そこでまず、このレポートの送り先の相手を、昔の地球時代にならい「MATSU」と呼ばしてもらおう。
そして最近、そのMATSUの作成するサイト、「両生歩き」の 2015年10月22日(No.192) 号で、美的なんだが、どこかこの世離れした、下の写真を拝見させてもらった。
そこで MATSUは、この写真を撮った際の不思議な体験を告白しているが、それこそが、俺がいま居るこの霊理世界では当たり前の現象なんだと言える。
そしてそれをいっそう端的に言えば、MATSUたちはその時、「ポータル」 (注) に――少なくともそれに近い場所に――居たということだ。
(注)「ポータル」とは、一般には玄関とか入り口という意味だが、ここでの意味はこの記述を参照。
つまり、地理的には、その海抜5000メートルに近い地球の突起上にあって、MATSUはそれだけ宇宙に近い、つまり霊理界に踏み入った場所に居たというわけだ。そして古代から、そういう高所は「天と地を結ぶ柱」と考えられてきたんだ。だからこその「ポータル」なんだ。
インドのヒンズー教の信仰では、地球から突出したそうした高山を聖なる場所として崇拝する。この写真を撮ったその山行でも、その目的だった山、バンダパンチ峰(6316m)は「五番目の突起」という意味だ。
そもそもヒンズー教では、その信仰の根源には、そうした突起物を地球の男根とみなした生命の発生、つまりエロスはエロスでも宇宙的エロス、への崇めがある。すなわち、そうした高峰をおおう大気や雲こそ、女のバジャイナ(膣)で、そうして高峰と雲の合体によって生じる雪や雨が、あらゆる生命の源というわけだ。
MATSU自身も、ヒマラヤ奥地の巡礼寺院で、何が祀られているかを目撃したはずだ。そう、それは、寺院の中央に位置する男根状の突起した岩、リンガである。それを、訪れた老若男女の巡礼者がうやうやしく拝んでいる。ことに、女性たちがその突起に白いミルクをかけてなぜまわしている光景なぞは、なんともエロチックに見えたことと思う。
MATSUは、山に登った際には常に、下界では得られない山独特の高揚感にとらわれていたはずだ。まして、目指す山の頂上に立った時、その登りが苦しければ苦しかったほど、強い達成感に満たされていたはずだ。
ただ、若いころの登山は、スポーツとしての意欲や関心が中心で、その高揚感もそうしたものだったろう。だが、年齢を加え、蓄積した人生経験をたずさえて登ることとなった山は、単に身体的なものに終わらず、そこにいっそう深くともなう精神的にハイな感覚に気付かされることとなる。
遠く古代より、我々の祖先たちは、山に登った際のそうしたハイな感覚が一体何なのか、それを考えてきた。そればかりか、その結論に立って、多くの修行僧が自らをそうした環境に置いて、世界の真実に到達しようとしてきた。
つまり、その高揚感や達成感は、その途上の肉体的苦行の見返りとしてのそればかりではなく、そういう山という地球の突起のもたらす、いわゆるパワーポイントがゆえの、はるかに霊理的な産物でもあるのだ。
言ってみれば、その到達感とは、山登りという行為がもたらす、《霊理的なオーガズム》とでも称していいものなのだ。
話を広げれば、世界中どこでも、高くそびえる山は信仰の対象とされている。
たとえば、今では中国領土となったが、チベット西部にあるカイラス山は、まさにそうした突起そのものの独立峰で、山全体が聖山とされている。そのため登頂は許可されず、六千六百メートルなにがしほどの標高でありながら、今日でもいまだに未踏峰のままであり、巡礼者は、その山麓を一周(50キロほど)するのが務めとなっている。
また、山に限らず、突出した岩とか、高くそびえる樹木とか、それにそもそも、祀る神は異なっていようとも、世界のあらゆる寺院や教会は、高い塔によってその存在を鼓舞しているのが常だ。
そればかりか、今日の発達した産業社会においても、その繁栄のしるしとして、都市の中心には高いタワービルが建てられ、その経済的達成のまさにシンボルとなっている。
ちなみに、高層ビルの林立する東京都心を見渡して、その光景をヒマラヤの峰々のそれと重ね合わせてみるのも興味深い。むろん互いに別世界ながら、別の意味では、人間の想念の共通する方向性が各々に確認できるというものだ。
そこで俺が言いたいことは、その《霊理的オーガズム》とは何かということだ。
まあ、俺のささやかな経験に基づいて言わせてもらえれば、そうとは知らなんだが、ともあれ死んでここにやってきて、自分の物体的生命は尽きようとも、連続した俺がこうやって実在していることだ。そして、俺とMATSUとがこうしてSF的手法を駆使して交信し合えるのも、MATSUがそうした《霊理的オーガズム》の体験をへていたがゆえに、想像力を全開しえているからこそだ。まさに「ポータル」が開けられていたからだ。
それというのも、地球上ではオーガズムとは男と女という両性がなすものだが、この霊理界では、前回レポートしたように、それは陰と陽という宇宙的な両態がなすものだ。
それに、地球上では男女の合体は新たな生命の誕生を意味したが、この霊性界では、陰陽の合体は宇宙生成の原点となっているのだ。
俺はいまだにこの霊性界では新米中の新米で、宇宙生成うんぬんなどに口出しできる筋合いではない。
だがそのうちに、ぼちぼちとそうした領域にも、関心を進めてゆきたいものだと思っている。
では今回は、こんなところで、このポータルを“お開き”にしよう。
前回のここで、俺は「霊理的オーガズム」についてレポートした。実は俺、その言葉を使ってはじめて、これが「ことだま」作用というのだろうか、自分が肉体的死を経験する際、なんとも言えない心地よい感覚が伴っていた、それが何だったかが、ようやく解りはじめている。
《肉体的オーガズム》をもって命に炎がともされ、
《霊理的オーガズム》をもってその炎が消える。
《オーガズム》とは、あたかも、この生命界へ出入りするその両門における、《霊理》に触れる高鳴りなのだ。
そうなんだ、俺たちの死とは、そうした「霊理的オーガズム」を伴って次の“生命態”にのぼりつめる登頂なんだ。だから、人間、死のその瞬間、それまでの身体苦がどれほど辛かったとしても、微笑むような――いかにも「仏」のような――表情をしてそれを迎えうるのだ。そう、あたかも、未踏峰の初登頂者のように。
そして、MATSUもどこかで書いているが、そのようにして、俺たちは「し」というタイムマシーンに乗り込んで行くのだ。
今回はこのように述べた上で、一つの提起をしておきたいと考えている。
そこでまず、その提起内容から先に述べておくと、この「MOTEJI越境レポート」は、もはや、そうしたタイムマシーンに匹敵する、ひとつの超自然装置、すなわち一個の《霊理マシーン》そのものじゃないか、ということだ。
ただ、タイムマシーンなどと言えば、映画「バック・トゥ・ザ・ヒューチャー」にも登場したような、何やら物々しい機械――同映画ではスポーツタイプ車の形をしていた――を思い浮かべがちだ。だが、それは映画の上での話。つまり、時空間世界での機械観でしかない。
だが、霊理界上での話となれば、少なくとも時空間次元からそれを展望しているこの「META-MANGA」のストーリーにおいては、まったく違った“機械観”を持ってもらわねばならない。
まず、そこでの最も大事なエッセンスは、その「マシーン」は、時空間的な「物体」を、必要も意味もしていないということだ。いわば、鉄だのアルミだのプラスチックだの、いわんやもっとハイテクな高度物質すらも、必要とも意味をもしていない。すなわち、その「マシーン」はまったく、いわゆる“物質”上の働きを使っているデバイスではないということだ。
まあ、あえて地球世界で通用している言葉を用いれば、それは量子次元で働いているエネルギー――地球では昔から「エーテル」とも称されてきた――の燃焼現象だ。
したがって、時空間内の作用に依拠していないからこそ、次元を超えた効果が果たせるのだ。
それに、誤解をおそれずに表現すれば、それは「幽霊現象」の転用のようなものでもある。だからこそ、地球メディア用語になじませて言えば、それは「METAにMANGA」的でさえあるのだ。
そこで、そうした「マシーン」世界を、もっと身近に引きよせて言うと、それの働きを実用化するには、ともかく、異なった次元間を行き来する通路、すなわち、前回でも述べた「ポータル」の利用を必要とする。いうなれば、その「マシーン」専用のハイウェイの使用と言ったところか。
そうした「ポータル」は、地球上の自然状態では、前回、述べたように、高山といった「地と天とを結ぶ柱」がその役を果たしていることが多い。だからこそ、上記のような、「登頂」とのたとえがふさわしくなる。
そうしたヒントや発見をもって、その働きを具現化しているのが、いま、読者が体験しているこの特定ページであり、それがあたかもレーダースクリーンの役を果たして、異次元ともの話や世界を映し出しているのだ。
むろん地球次元では、このページも、ウエブ上のブログページという、IT技術上の一技巧である。いうなれば、IT的トリックに過ぎない。しかし、「ポータル」とは、地球上のどこに出現してくるのか、まったく神出鬼没な機会である。つまり、トリックにしか見えないそうした効果を通じ、このページが「ポータル」となって、別次元界の「創意」が、そう作用しえるのである。
加えて、そこに表現されるコンテンツは、見かけ上ではこのブログページの作成者がそれを作っているかに見える。しかし、その内実は、その作者の意識や発想に働きかける霊理的チャンネルをつうじて、その「創意」が彼に到達した結果であるのだ。テレパシーと言ってもよい。少なくともこの場合では、俺の働きかけとそのブログ作成者とのコラボレーションである。
また、そのブログ作成者の側に立って述べれば、そうしたコンテンツは、ある時は、彼の睡眠中に出現したストーリーに基づき、またある時は、日常のふとした瞬間に脳裏に浮かぶ、閃きに基づいている。
むろん、そうしたヒントを、たかが夢とか空想談として片づけてしまえる向きには、そうしたコラボレーションは生まれようがない。そういう意味では、俺が前回に指摘したように、ブログ作成者のMATSUが、そのマインドを常にオープンにして、俺からの通信を受信してくれているからこその開花でもある。
あるいは、そうしたマインドへの接近法として、彼が自分のブログに述べているように、太陽凝視は、有効な一方法であるようだ。
いうなれば、そのような実用法をもって、死ぬ以前のまだ生きている命であっても、地球上――つまり時空間的存在――にありながら、そうした霊理マシーンの機能を使用できるということだ。
ましてや、一度でもその機能を楽しめる体験を味合えば、欲や金にまみれた話など、糞くらえと言うものだ。
ところで、こうした機能は、伝統風習的には、「霊媒」とか「巫女」とかと呼ばれる人たちがそれに関わってきているものでもある。つまりそれは、古来からの人間の知恵ともいうべき働きであるとも言える。俺は、そうした人たちを偽物呼ばわりする積もりも、一線を画そうとの意図も毛頭ない。ただ、誰もそうした人たちを、タイムマシーンのオペレーターであるとは見ていない。まして、そうした人たちはその手段となるデバイスや手法を、このように公開などもしていない。いうなれば、俺は、そうした働きを、れっきとした今日の最先端科学デバイスの機能として提起し、みんなで共有しようと言っているだけである。
話しは変わるが、今やこの地球は日増しに混迷を深めて行っている。ここ霊理界の俺の周囲でも、そんなケイオスが行き着いた先での、人類の「いつか来た道」への舞い戻りを憂う気配はますます深まっている。そんな脈絡でも、「霊理マシーン」の果たせる《共有路》としての役割は、夢物語や空想ストーリーどころではないはずだ。すでに人類は、先の戦争だけでも、何千万もの命を、いずれも勝利のためとして、この霊理界へと送り込んだ。その彼ら彼女らの声が、この《共有路》を通じて、地球上へも還流していないはずはない。
俺がこの霊理界にやってきて地球時間にしてもう半年以上が経過した。だが、そのわずか半年少々の期間ではあっても、長くいた地球時代とまるで勝手の違う“暮らし”を続けてきて、実は、ある、恐ろしいほどに対極的な認識に至りつつある。むろんそれは、地球時代の俺にしてみれば、想像を絶するどころか、あってはならない話ですらある。そうした話を、今回は、実はそれが、今日のこの混沌極まる地球をもたらしている元々のリアリティーではないかと、こちらの世界の通説をお伝えしたい。
むろん地球世界においては、先に俺が通過した「死」とは、それこそ、この世の最期を終えてすべてを喪失するかの、最も忌み嫌われる出来事である。だがしかし、それを経て今ここにいる俺は、それほどにネガティブな体験をしたどころか、逆に、それによって俺は「救われた」、あるいは、「解放された」とでも言ってよい心境だ。そればかりか、天地逆転するかのポジティブでハッピーな体験ではなかったのかとすら思えてきている。
むしろ、なぜそんなにも嫌がられたのか、その極端に忌避される受け止められかたそれ自体が、今になっては、なんとも不自然で不当な取り扱いにさえ見えてきているのだ。
地球の他の無数の生物たちを見渡せば明らかように、命を失うとは、ひとつのサイクルの終点にすぎず、その全体は、そうした多様の終点を取り込んで、いかにも生きいきと永らえ続けている。それが自然というものだ。
そうでありながら、人間だけが、そんな「し」を「死」として忌み嫌い、一種のタブーとすら化して、異様なほどの恐れを伴わせて、惧れ伏さしめられている。
そこでだが、俺は地球時代の、こんな話を思い出している。
それは、地球社会で生き抜いてゆくために、誰もが当然のことのように行っている競争を勝ち抜いて、何とかして獲得した就職について、それを辞めるか否か、逡巡していた時の話だ。その時、あたかもその退職が、自分の人生の全てが尽きてしまうかの、あたかも事実上の「死」を意味しているかに感じられたことだ。
後になって振り返れば、それは、いわゆる「社畜」に陥らんとしている自分に反発した、なんとも健全な脱出行動に過ぎなかったのだが、いかにもそのように社会的死線を越えるかの、やってはいけない行為であるかに受け止められたことだ。
だが他方、それが多数の常識でもあって、そうした自らを「家畜」同然とする意識や行為は、なにも就職に限られているわけではない。そこで、そうした特定組織のくびきからたとえ脱出しえたとしても、今度は国といういっそう大きな人間集団への、同類な帰属意識を植え付けさせられ、「愛国心」と呼ばれる、いっそう大規模な「家畜化」現象に捕らわれるのが常である。
そしてその果ては、そうした重層する「家畜化意識」は、論理的に「アイデンティティー」とまでも概念化され、あたかも、人間にとっての普遍的な心理的基盤として規定されるにも至っている。
すなわち、そうした「アイデンティティー」ある存在が、その存在の「死」をもって、論理的にも普遍的にも、さらなるすべてを失うのである。
逆に言えば、そういう「死」という全喪失の恐怖をもって、命というひとサイクルに究極の強制が作り出されている。つまり「死」とは、逆らえばこうなるぞという、不自然にも人工的にも巧妙に作り出された、社会の最大の懲罰そのものとされている。
だが、それは実は、俺が今見出しているように、拘束からの解放であったにも拘わらずなのにだ。
しかし、周りの動物や植物を見を移せば、そうした無数の生き物たちは、果たして「死」の恐怖なぞに脅かされているのだろうか。
また、人間にとっても、水や空気や太陽光は、いずれもみな共有のものであり、その入手に競争を強いられるものではない。食料にしても、その取得に一定の努力は必要であったとしても、強迫観念をともなって、その取得に、他を蹴落としてでも奔走せねばならないほどのものでもない。
だが、食料を始め、人間が生きてゆく必需品が、いまやことごとく商品となり、それを買う金なくしては生存して行けない社会となっている。つまり買うための手段たる金があらゆる価値に優先させられ、金を介在させた支配の構造ができあがってきている。上に、水や空気や太陽光を共有のものと述べたが、すでに、水の大半は有料となり、空気や太陽光も、地球の汚染の深まり次第で、有料となるのも時間の問題だろう。夏の過酷な暑さがゆえ、クーラーが不可欠となっている暮らしも、空気の商品化の一端だろう。
つまり、それは経済と呼ばれているが、その地球をくまなく支配しているマネーの構造も、人類全体をそういう種類の家畜にしておく装置と言いかえうる。そして、そうした構造のからの逸脱が、いかにも「死」に直結するかのごとくに、金という言語を通じたただの数字に翻訳され、地球においてはすべての人たちが、その家畜となることに従順となっている。
俺は確かに、自分の「し」を経ることで、その家畜状態から解放された。それはまぎれもない事実である。
逆に言えば、地球とは、そういう目には見えない檻で囲まれた牢獄と化している。
ただし、それが本来の地球の条件であるのかどうか、それは大いに疑わしい。つまり、地球をそういう条件に縛っている何らかの強制は、地球ばかりでなく、どうやらこの宇宙全体に働いているようだ。
そうした脈絡で言うのだが、今、俺の達して来ている地点から見れば、地球時代の俺とは、同心円状の入れ子構造をもった折り重なった隷属構造の虜であった。
そして、地球とは、その誕生以来46億年という長い地球的間尺をもって測られている歴史があるが、もしも、そういう歴史自体が、一連の《実験》であったらどうなのかという着眼なのだ。言い換えれば、生命の発生からその進化、そしてその結果の人類の発生に至るすべての過程に、何らの外からの「指令」が一切働いていなかったと証明できることであるのか。むしろ、それができないからこそ、「神」という概念が人類に必要であったのではないのか。
むろん、それに能天気な一部の地球人が、自分たちがその間に、無から命を発生させ、それが進化して人類を発生させたという《地球中心観》を育ててきたというのは百も承知の上だ。
だが、今、俺のいるこの霊理界から言えば、その《地球中心観》も、いかにもけなげで愛おしいような話として取り上げられはするのではあるが、ここでの長老がいみじくも言うように、「奴隷にも五分の魂」というひと言に、こちらの世界から冷静な視野が込められているのだ。
少なくとも、俺には、地球とこの霊理界とが、「死」と呼ばれて忌み嫌われる、そんな断絶をもった互いに異なった世界とされていること自体が、おおいに疑問ありとにらんでいるところなのだ。
何も「神」だの{God」だのと大構えをする前に、古代からの確かなメッセージに、素直に耳を傾ける必要があるだけなのだ。
No. 8 《知・エネルギー融合子》 = 《氣力》たる存在として
MATSUは、眠っている間、自分は何をしているのだと思う? おそらくその返答は、「夢を見ているか、夢も見ないで熟睡しているか、そのどっちかだ」などというのが一般的なところだろう。
そこでその夢なんだがね、俺も地球時代を思い出して言うのだが、たとえば、夜中にふと目を覚した時のこと。横で寝ている連れ合いや子供だのが、何やら誰かと話しているらしき寝言をはたで聞いて、確かにやつらの身体はそこにあるのだが、その心というか意識というか、そういったものはそこにあらずなんだな。そして、どこか全く別の所に去って行ってしまっていると、妙な現実味を伴って感じさせられたものだった。
MATSUも以前、こんなことを言っていたね。「手術を受けた際、全身麻酔をされた瞬間に、自分が自分の身体から離れ、天井からベッドにいる自分を見下ろしていた」。それはいわゆる「離身体験」ってやつだ。
そして、今の俺とは、その離身を完全に遂げてしまって、その出て行ってしまった方の俺がこの俺で、残った身体は、すでに焼かれて骨と化し、今では墓の中に納まって永眠している。それは確かなことさ。
そこでなんだが、地球ではそれを「夢」と呼ぶそれのことだが、俺に言わせれば、それも毎夜に繰り返される「離身体験」で、それを通じて、それこそ無数のその《離身存在》がこの俺のまわりにやってきている。
むろん、そのほとんどはまさに夢うつつで、たわいもなくやって来ているだけなのだが、中にはそうとうしっかりした意図や意識をもって、その体験から何かをつかもうとしている連中もいる。ともあれ、たとえそういう意気込んだ奴らでも、いずれはその夢も覚め、現実界へと戻ってゆく。
そこで俺なぞは、そうした夢うつつの連中に、これぞという者、ことに顔見知りなどを見つけた際には、ここでしか知りえない、結構面白い話などを聞かせたりして、手ぶらで帰ることのないように何かとサービスしている。余計なお世話かもしれないがね。まあ、俺の道楽みないなものだが、人によってはそれは何にも代えがたい情報源となっているようで、けっこう重宝がられてもいるね。「究極の連帯だ」なんて持ち上げてくれる御仁もいる。
そこで言うのだが、そうしたサービスが別のスタイルとして定着しつつあるのがこの「MOTEJI越境レポート」という媒体――それこそ「メタ連帯ジャーナル」――だ。そしてそれが、今回でもう7回を数えるまでになっている。
そしてこの媒体を通じて、夢であろうと死であろうと、そうやってなされる、片や一時的、片や不可逆的な「離身」という出発をした《旅》の話を、その境界をはさんでこうして交換し合ってきている。何とも意気壮大な話じゃないか。
それにしても、そうして身体から離れて《旅》しまくる存在とは一体何なのだろうか。
地球時代、友人の中には旅行好きがいて、まるでそのために生きているかのようなやつもいたが、そういう連中は、同じ移動でも「離身」は抜きで、心身一緒に行動していたし、その舞台も地球圏内に限られていた。それにしても、今や地球は、そうした《旅しまくり人間》たちでごった返している感じだね。
一方、今の俺は、その「離身」のおかげで、その旅先は地球内に限られない。言うなれば、身体を切り離して身軽になったおかげで、旅先も持ち時間も無限に広がったわけだ。昔、俺の若いころ、「何でも見てやろう」と世界に旅立つ、俗にいう「無銭旅行」が流行ったことがあった。今のバックパック旅行の元祖みたいなものだ。そういうアイデアにひとつ“ひねり”を加えるなら、「離身」を、国境のように、単に通過点とみなす腹構えさえできるなら、バックパック旅行の“宇宙版”すらもありうるってことだ。
つまりは、そうして身体から離れて移動し回る存在を、「霊魂」であるとか「浮遊霊」とかと、おどろおどろと考えることなかれ。それほどに別世界のことでも不連続のことでもなく、その往来は、構え方次第では可能な話なのだ。だからこそ、こうやって定期的なレポートもやり取りされている。
俺はここに、それを通過点とし、連続なものとする見方を、以下のような話を持ち出すことで、さほどにも突飛な見方ではないと、持論を展開してみたい。
一例をあげよう。地球の赤道のやや南にパプアニューギニアという大きな島がある。そのパプアニューギニアの高地に、険しい山々とジャングルのため世界から隔離されて生活してきた未開原住民にとって、少なくとも太平洋戦争までは、たとえば、ニューヨークや東京の高層ビル街やその雑踏は実在しなかった。だが、その双方を知る私たち現代人にとって、それは彼らが単に無知であるということに過ぎない。そして彼らの世界はその高地の密林内に閉ざされ、他の世界は、実在していようとなかろうと、無いに等しい。そこ以外の世界は、いわば、あの世の空想事か、神の世界の話である。
そこでだが、今の地球が、そうしたパプアニューギニア高地の密林でないと、どうして断言できよう。つまり、密林であろうと、宇宙空間の膨大な隔たりであろうと、共に、知ることを妨げている“当座の壁”であることには変わりない。
少なくとも、地球が、限りない大宇宙のほんの片隅の銀河系の、そのまた片隅の太陽系の中の一惑星であることを知り、密林とニューヨークや東京の高層ビル街の双方を知っている者にとって、密林たる地球から「離身」する意欲や必要は、しごく当然に生まれるはずじゃないか。
そしてそれが了解されるなら、俺はつぎに、そうした壁に取り囲まれた地球居住民のもつ《地球人中心意識》を指摘したい(言うまでもなく、それを下支えする意識の指摘として、「男中心意識」とか「美しき日本」とか「中華思想」とか「WASP中心意識」などもあげられよう)。
すなわち、一団の人々がある一定の限られた環境を基盤に生存している時、その特定環境が作り出す特定な共通意識が――時には極めて政治的に――あり、そしてそれが、なんとも切ない働きをしているのだ。
そこで、そうした「密林意識」に立つ《地球人中心意識》を念頭にするやたちまち、立ち上るそれを越える意識に鼓舞されて、さまざなな視界が開けてくる。
たとえば、そうした《地球中心観》から観測するから、「他惑星に生命の存在の可能性」とか「異星人の可能性」とかといった議論や、反対に人類は「宇宙の孤児」といった説も出てくる、といった具合だ。
そこで、そうした視界に立つと、その無限な宇宙の中に、他の特定小宇宙環境も、それこそ数えられないくらいある可能性が散見できてくる。そしてその小宇宙環境やさらにマイクロな、あるいはもっとナノな環境に、それに適合した生命や、生物や、動物も、人類も、いくらでも存在する可能性が存在している。ただ、そうではありながら、互いに接触する機会がないか、あるいは、あっても気の遠くなるほどまれである、という話となる。
また、哲学と宗教が重なり合うメタ思想に立って言えば、私たちの保有するあらゆる見解は、なにひとつとして、私たちの知覚に拠らないものはない。つまり、意識という主観を超越しうる客観という観点は、なにがしの無知か捨象を前提にしない限りはありえず、科学という客観性を鉄則とする領域の有効性に、根源的な疑念を投げかけている。
こうした疑念は実際に、そうした科学界内部からも提示されはじめている。素粒子物理学の最先端の見地において、一つひとつの素粒子に、意志の存在を認めなければ説明のつかない現象が“客観的”に確認されているのだ。
したがって、俺に言わせれば、「物質実体の存在」といった議論こそ幻想かつ干からびており、そこに何やら、冷徹で排他的な既成権威の発生源すら見出してしまう。それって、「密林」の別バージョンじゃないのかってね。
そしてそうして、その《地球中心観》は、そうした歴史的かつ組織的諸権威の集大成と化して強欲のままに君臨して地球を欲しいままにしている、との俺の持論をもたらしてくれるのだ。
あるいは、私たちが日々抱く「自意識」とは往々にして、さまざまなテクニックを駆使して私たちの意識内に落とし込まれた、そうした歴史的・組織的諸権威のマル・ビールスの産物と化している。そして、それが寄り集まった《地球中心観》で、この大宇宙をとらえてみたとしても、「井の中の蛙」にもならない話なのだ。こうしたいわば“偽自意識”と、私たちが多様な生命体のひとつとして抱く自然な直観とは、厳密に区別されねばならない。
言い換えれば、あたかも人類が宇宙で最も高度な存在であるかの議論は、おこがましいのも甚だしい、まったく愚かな“自己中”意識だ。(これを、地球(グローブ)中心意識、略して「グロ中意識」と読んでみようか。)
ここに至った今の俺からは、その「グロ中意識」が丸見えなのだが、それこそ地球人は、自分は何様とお思いか、ETにせよUFOにせよ、それすらも存在しないなどと隠蔽して、無知傲慢――あるいは極度に卑屈――もはなはだしい。
そもそも、宇宙全体が生命体であるとの考えに立てば、俺なぞは、その生命体の一細胞にもおよばぬ、一原子にすら満たないかも知れない存在だ。むろん俺が地球人であった際には、そんなことなぞ、想像すらも困難であったのだが。
MATSUよ、こういう俺の存在は、一体、何とされるべきなのだろう。むろん俺はもう、それを「魂」とか「霊魂」なぞといった「グロ中」用語の対象とされたくはない。
少なくとも、まず、人間意識から身体性を除いたその意識存在の世界を《霊理界》とし、加えて、その俺の存在自体を、意識も意志もある《知・エネルギー融合子》ととらえたい。東洋的には《氣力》といったところだろうか。
地球人たち、ことにその一握りの君臨者たちは、余りにも傲慢に、その自らを含むすべての生き物の根源であるはずの地球環境を食い物にしてきた(最近、他惑星への移住計画を頻繁に耳にするようになった。ひょっとすると彼らには、搾取し尽くした廃墟同然な地球なぞ、平気で見捨てる積もりなのかも知れない)。
ことに、FUKUSHIMA以降の日本は、国民絶滅――大げさではない――も想定される危機的事態に遭遇しながら、うそと隠蔽に塗り固められて、それすらも認識されていない終末的状況だ。
MATSUよ、俺は、そうした事態を見れば見るほど、限界の存在しないはずのこの場におよんでも、地球人的もどかしさに駆られてしまう。だからこそ、《知・エネルギー融合子》たる俺のそうした《氣力》を、なんとかポストFUKUSHIMA的事態に関わらせうるチャンネルを探りたいのだ。
MATSUよ、ここ黄泉の世界にきて以来、レポートNo. 3でも報告したように、地球時代とさまが違う事の筆頭が、ともかく《時間が存在しない》ということだ。時間がないから寿命もなく、従って命もなければ、誕生も死もない。常に今であって、今が限りなく広がっている。時間がないから過去もなく、そういう「時の彼方」を惜しんだり、またそれを逆手どってそこに物事を隠したり、嘘を言ってしらばっくれることもしようがない。つまり、あらゆることが限りなく透明で、見え見えなのだ。
俺は、とことんボケた結果、ここにやって来ることとなったが、そうしてここに来て判ったことが、時間がないとは、昨日も明日もないから記憶も必要ないことだ。信じられないだろうが、誰もが俺に優るとも劣らず、見事にボケている。というより、誰にもどこにも記憶という概念すらなく、瞬時にすべてが感じとれる、そうした優れた感受性のアトモスフィアが行き渡っている。地球ではボケは人間脱落の骨頂かのように言われたが、何のことはない、いずれは無用となるのだから、それは必要な旅支度だったわけさ。
あるいは、とかく地球では、記憶力の良し悪しが人の能力として注目されがちで、一般に、その良さが強みとなる世情も蔓延している。しかしここでは、記憶という言葉すらない次第で、仮に頭の良さという何らかの言葉があったとしても、それはまるで違う品性のことを指している。
思い起こせば、地球はとにもかくにも、世知辛いほどに時間が君臨する世界だった。「時間を大切にせよ」との御託宣もあった。それは限りある資源とされて止むを得ない術ではあったのだろうが、学校や職場では、わずかな時間が守れないというだけで、あたかも罪人であるかのような扱いを受けたものだ。
いっそうのこと、地球を「時間の惑星」とでも呼べばいい。むろん、地球から《時空尺度》をつうじて宇宙を見る限りにおいては、火星だろうが土星だろうが、その時間帝国の世間常識においてのこととなってしまう。つい先日も、NASAの土星探査機「カッシーニ」が1997年の打ち上げ以来の二十年間のミッションを終えたとのニュースが報じられていた。つまり、土星の写真やデータを取りにゆくだけで、そこまでの時間の君臨に服従させられるわけだ。探査機の飛行速度上そうなってしまうのだが、しかしここでは、速度どころか、加速度もなくて、微分もなければ積分すらも御用なしだ。そしてただ、無限の多様さが広がっている。
そういう訳で、「無くして知る親の価値」ではないが、俺はいまここで、その時間をあらためて深く考えさせられている。そして地球外の世界からやってきた者たちからは、そんな世界があったのかと、むしろ、驚異の目で見られている。ある輩からはこう言われたよ。「その時間ってやつを、いっぺん体験したいもんだ。」
そこではたと気付いたのだが、まさに時間とは地球ならではの特産物であって、これは宇宙での「売り物」になるってことだ。むろん、ここの世界では、必需品に過不足はなく、まして市場とか売買という制度や慣習もない。マネーさえも無用だ。だから、正確に言えば「売り物」というより、心底の関心や魅力といったものだ。そうした事情で、時間を骨の髄まで知り尽くさされた俺は、その世界の超権威たる存在で、それなりの地位や役割を次第しだいに引き受けるはめとなってきたわけさ。
そこで立場柄、思いつくままあれこれ調べてみたのだが、そういう「時間の惑星」への関心やそこへ行ってみたいとの願望は強く、まだ人気沸騰といったほどではないものの、すでにその地球を訪れてみた事例もあるようだ。ちなみに、そうした旅行の際に利用する乗り物とは、地球ではロケット推進の宇宙船がまず思い浮かべられるだろうが、ここではそうではない。それは地球上の名称で言えば一種の「タイムマシン」で、地球のある時代や場所を“入力”して、訪れてみたようだ。
念のために言っておくと、この「タイムマシン」とは、世界から「時間」を除去する装置で、乗り物というよりむしろIT機器に近い。むろん地球上の超限定版それとは比べ物にならんがね。また、地球では、上記のように宇宙旅行にはロケットが不可欠なのだが、そうした化学的爆発の反作用推進機は、この世界から見れば、まるで石器時代の代物だね。だから、土星探査に20年もかかるわけだ。20年なんて言えば、もうそれだけで、人生の佳境が終わっちまうも同然じゃないか。
俺はそこで思いついたのだが、そうした地球訪問を地球人側から見たのが、天空に突如あらわれた飛行体、つまりUFOの出現だったのじゃないかってね。そして、そこから降り立った人々の異様さや、彼らの持つ地球人にはありえない、いわゆる超能力を見せつけられたってわけさ。
そうした地球訪問の際には、その訪問先は、むろん、“同時代”である必要はない。ちょっと数字をさかのぼらせて、地球の太古の時代を選んだ者たちもいるようだ。それを聞いて、俺は、なるほどそういうことだったのかとさらに気付かされたのだが、地球で「神」と呼ばれている全知全能の存在とは、そうした超能力をもった訪問者を起源としているのだろう。
地球のどこの国の神話にも、そういう天上人が描写されている例は多い。興味深いことに、旧約聖書の創世記には、何人かの天使の話があって、そのうちの「堕落」した天使たちが、地球の娘と関係をもって、子供をもうけたという話まである。げすびた話に聞こえるかもしれんが、そうして地球を訪れたツアーの一行が、旅行先での現地体験をいろいろ試みているうちに、まるで「旅先の恥はかき捨て」とばかりに、そうした行為に及んだのかも知れない。あるいは、郷に入っては郷に従えと、現地人がしていることを見習っただけのことかもしれん。
日本の昔話でも「かぐや姫」の話や、神話での「天津神」という天孫降臨の物語は、まさに、そうした地球訪問ツアーが引き起こした、天と地の遭遇のストーリーそのものじゃないか。
観点は変わるが、そもそも、《時間》とは、《量》を発生させる根源の尺度じゃないかと思うよ。むろん宇宙のどこかには、それ以外にも異なった「量」の概念を発生させる次元はあるのかも知れない。あるいは、量のない世界は、質だけの世界なのかも知れない。だが、そうしたものが何かはむろん知らないがゆえに、コメントのしようもない。
ともあれ、その時間によって作られる世界は線的で、あらゆる出来事が時間の流れにそった一本の線上で起こる。まるで、流行りのラーメン屋の行列だな。
そういう時間という線上のある時点へ、そうしたツアー団が訪れて何らかの体験を残していった場合、それは地球上では、その時に起こった歴史上の一こまとしてそれなりに解釈され、記録されたはずだ。むろんそいう出来事は、地球外からの超能力訪問者のなした事々であり、当然、それまでの純地球上の発展や進化に、なんらかのインパクトやジャンプをもたらした可能性も大いにありうる。そういう「飛躍」を、地球の進化論者らは、解釈に困ったあげく、「突然変異」などと呼んできた。
つまり、歴史という連続した線には、そういう飛躍や不連続がけっこう紛れ込んでいるのではないかな。むろん、特定のそうした線の研究者たちは、それの前後がつながらないため、それを欠けた連続としてその発見につとめているのだが、そういう連続はもともと存在しないのであり、そうした探究も徒労なのじゃないかな。
もちろん、地球を外界から遮断された無菌室のようなある種の“宇宙版ナショナリズム”とするのも一つの設定だが、そこに、地球外からの訪問者がなんらかの「質」を混じり込ませた可能性もあるとするのもまた別の設定だ。それが一種のアクシデントか、それとも綿密に構想された意図のひとつであったのかの違いはあるのかも知れないが、そういう外界からの働きは一切なかったとするのは、なにやら大人げない非現実的願望のように思われる。
そこで俺は思うのだが、地球上で一般に「超常現象」と呼ばれている出来事とは、そうして混じり込んできている別の「質」のことではないのだろうか。
例えば、そうした超常現象である「テレパシー」にしても、「テレポーテーション」にしても、時間や距離のない世界においては、むしろ、あることが、あそことここに、同時同在するのは何の不思議もないことだ。
人の能力の喪失現象とされている「ボケ」にしても、逆にそれを、記憶と呼ばれる時間特殊の能力の低下や喪失として見ると、まさに、そうした特殊性が消えていっている一般化の結果と言える。
俺も、その進行するボケを自ら体験しつつ、何で俺は、何から何まで、すべてをこうすんなりと受け入れれるようになったんだろうと思っていたよ。俺もずいぶん寛大になったもんだってね。以前だったら、もっと何かとこだわりがあって、嫌ったり、体裁をつけたり、疎んじようとすることが少なくなかったのだが、そんなものはいつの間にやら消え去っていた。その分、自分の身体的醜態をさらし周囲に苦労をかけることにはなっていたがね。また、それ以前には決して見えなかったことがはっきり見えてきたりもしていたね。そして、その最後に来た受け入れが、自分の命の旅立ち、つまり「時間」への服従からの解放だった。
そうした「線」や「量」の世界が無くなって、今、俺にあるのは、今しかなくそれが無限である、大きく広がる「質」の世界だ。もはやそうした「線」や「量」に追い立てられることない、そういうふくよかさがふんだんにある世界だ。そうした世界を地球表現で何というか、ひとまず「愛」の世界だと言っておこうか。
きっとまさかと思うだろうが、今回のMATSUの「クモ膜下出血」からの生還体験は、実は、俺が用意周到に仕組んだものだと言ってよい。
自慢するわけではないが、俺にだってこのくらいのことは可能だ。つまり、俺とMATSUのコミュニケーションがいったん成立すれば、そこではこうした芸当も可能となってくるということだ。
いうなれば、両界を股に掛けた両属分野をフルに活用することができるというわけだ。
そこで俺が何を意図していたのか、以下、説明しておこうと思う。
その狙いは第一に、身体は永遠のものではないというMATSUへの警告だ。ただし、これは脅かしでも限界でもない。むしろ、視点を変え、貪欲にあれという激励だ。
ヒマラヤへのMATSUたちの三週間の旅行日程に忍び込ませたこの構想は、そのタイミングといい、日数といい、周囲への配慮といい、あるいは財布事情への考慮といい、まさにこれ以上のものはなかったかと自負しているところだ。
しかも、「クモ膜下出血」という致死率の高いその劇的体験を用いながらも、最も危険度の低いマイナーな症状とを組み合わせたという意味で、その警告の度は最高でありつつ、かつ、その後の人生における、例えば障がいを残すといった、周囲の人たちへの重荷を最低にすることを目指したものだった。
その第二の狙いは、そういう設定を与えておいて、黄泉の国への「出立後」への自由度を、最高にまで高めえたことだ。だってそうだろう、その自由度の確保のためには、頭脳は最高の明晰性を維持しておく必要がある。むろん、一桁ほどのパーセントの統計的数値で示される再発による致死の可能性はあり、その限りでは完全にはリスク・フリーではない。
だが、常識的な安全配慮に心掛けていれば、その数値も限りなくゼロに近づけられるだろう。そしてむしろ、その自由度と緊張の共存による可能性の開拓に期待が寄せられるというものだ。
その狙いの第三は、今回のヒマラヤ行きの直前、MATSUに本屋に足をはこんでもらい、広瀬隆の『文明開化は長崎から』を購入してもらったことだ。そして、その上下二巻のしかも二段組みからなる、うんざりする程のぼう大な著作を携えて、MATSUにとっては大事件である、入院の事態に至ったことだ。むろんそれによる効果は絶大なもので、MATSU自身が病院で悶々と体験したように、MATSUの個人的体験と日本の歴史的体験とを、立体的に結びつけるものとなったことだ。
MATSUはその二巻を、入院中にほとんど二度にわたって読んだようだね。つまり、MATSUが以前から疑念を抱いていた日本の幕末・明治維新期にまつわる怪しい話――たとえば勝海舟を文明開化の英雄とするような――に根底的見直しを問いかけるその著作は、MATSUにとってもそれ程に、極めて興味を引くものであったはずだ。
むろん、この本のお陰で、入院中という退屈きわまりない時でもそれどころの話ではなく、MATSUの信じる持論に確固とした基盤を与えたものとなったことだろう。
加えてこの読書体験は、過去十年ほどMATSUが続けてきているいわゆる「訳読」が、同著作に登場するおびただしい数の「通詞」の仕事に通じるところがあり、孤独に続けてきたMATSUによるその作業の正当性をほぼ立証するものになった。
そしてそれは、MATSUの入院中を襲う将来の不安を払拭するための激励となって、MATSUを心底から勇気付けていたことと思う。
そしてその狙いの第四だが、かくしていよいよMATSUも俺のいまいる出立後の世界にアプローチしてゆく時、舞台設定を根本的に異とするその領域において、いかにそのリードを確保していくのかが問われている。
そのひとつのヒントを広瀬の著作に求めれば、日本の近代史に降りかかった歴史の歪曲――「歴史の嘘」とも言ってよい――が正されることで、集団としての日本人の誰しもの立脚点に立ち返ることを可能とさせてゆくものだ。いうなれば、その略奪された歴史を、それを創出した人たちの手に返還することだ。
また、俺だのMATSUだのといった友人関係にそれを求めるとすると、決して死して終わるわけではない故人の意志が、その後も連続して存在しうる場の創設があってしかるべきだ。
その場は、「うつわ」としては、地球的なものを超えた未知の世界に挑んでゆくものとなるはずだ。そして加えて、その場は宇宙を舞台とし、異次元な世界を垣間見せてくれることになるだろう。
ねじ曲げられた歴史――これを人は「勝者の歴史」と呼ぶ――に真実の回復をもって、本来の人びとに歴史の復権が与えられ、それに基づく、日本あるいは地球史全体の登場すらもありうるだろう。
それはもはや、権力や支配の歴史でも、ましてやマネーの歴史でもなく、むろん勝者の歴史でもないものだ。
そして、地球からにじみ出す宇宙空間への生命態、宇宙エコロジーとなって、地球生命や宇宙生命を保護、共存させ続けることになるだろう。
以上、俺の両界構想を説明してきたが、それが地球の西洋支配を終焉させることを願って止まない。
MATSUよ、その後の回復具合はいかがかな。なかなか危機感迫る体験だったに違いないし、今でもそれは去っていないだろう。地球上ではそれを「九死に一生を得た体験」とでも表現するのだろうが、実は、それこそが俺が伝えたかった《両界体験》の醍醐味なんだ。そもそもそれは、たとえそのきっかけが「年寄りの勇み足」だったとしても、その本質は、生と死が背中合わせの境界体験のひとつだったがゆえなのだ。
そこで、俺のレポートもいよいよ佳境に差し掛かってきた感があるのだが、前回の「共同合作の第一歩」に続くその第二歩目として、今回のMATSUの体験をひとつの“成功例”として、それが具体的に示している実効性をレポートしたい。
そこでその実効性とはどういうものか、それをひと言でいうと、今日、地球上でいわれている「交信」とは次元もスケールも異とする《META交信》であったのであり、それが果たしえた実際性ということとなる。
そしてこの「META」とは、地球上の言葉でそれにもっとも近いものが「直観」なのだが、二者間の距離がたとえ何万光年であろうと、その言語がたとえ異星人相手であろうと、それらとは無関係に瞬時に成立するコミュニケーションのことなんだ。
地球のSF界の言葉では、それを「テレパシー」とか「遠隔視/千里眼」などと呼んでいる。しかし、あえて言えば、何もそんなに“新しがら”なくても、似たことは日本でも昔から、「義」とか「忠」とか「氣」とかと言われてきている。
ただ、今の俺には、それがどういう媒体やメカニズムをへて、互いにそう交信し合えるのか、そのへんのところの詳細はいまだ理解にいたっていない。ただ、おおざっぱな見当をつけて言えるのは、量子物理学領域の粒とも波とも言えない、あるいはその両方である、極超微小世界における何らかの働きによるのだろう。
だが、コンピュータの内部の仕組みを知らなくてもそれを利用はできるように、この世界においても、その実用使用は可能である。(ちなみに、どうやらその極超微小世界の働きの一部を用いて、量子コンピューターなるものが実用化されるのも近いようだ。)
つまり、《META交信》を利用したいと望む者は、心という多面に未解明でありながらすでに俺たちが持っているデバイスの感度を最大限にまで上げることで、このMETA交信上の「信号」をキャッチでき、ある種の情報が「共感」とか「共振」として伝わってくる。だから、ガチガチの石頭な科学者たちは、それは感情や主観にすぎないとして科学の対象から排除しようとするんだな。
ちなみにここで触れておくが、そうした「共感・共振」に対し、逆方向に作用しその破壊をもたらすものが、今や地球上の隅から隅までを覆っている、マネーという抽象の力である。これほど、人間を個々に分断したエゴの権化とさせ、人と人の繋がりを奈落に突き落とすものはない。そして、そのマネー力の君臨は、もはや暴力以外の何ものでもない。
ついでに言えば、そうしたマネーを、寄付やチャリティー行為によって、あたかもその暴力が克服されたかに演じられているが、それは新手のマネーロンダリングでしかない。一度断ち切られた繋がりが、その程度のことによって再生されることなぞありない。ありうるのは単に、新たな隷属関係のみである。
今、俺がレポートしようとしているのは、そうした暴力にさらに逆向きに作用する、類としての力とそれの作り出す共有の可能性だ。そしてさらに、その力は、個人の物質としての限界を超え、時間軸に沿った縦の、つまり歴史上の共有性として、類の通時的な力をも発揮するものである。
これを俺は《META交信》のサブ概念として、《META歴史性》と呼びたい。すなわち、身体という第一の地球性と、時間という第二の地球性を超える次元である。
そこでだが、この《META歴史性》とは何かを、もっと説明しておく必要があるだろう。すなわち、MATSUの「クモ膜下出血体験」を引き合いにして述べれば、そこには、この《META歴史性》を支える四つのチャンネルが働いていた。
まず第一は両義性のチャンネルで、クモ膜下出血という致死度の高さに遭遇することにより、生と死の両界にまたがる領域を、少なくとも生の側からきわどく迫って、垣間見ることができていた。
その第二はその自由度のチャンネルで、そうした両義性という身体の限度を超える分野にアプローチすることで、現生のもつ即物性・即金性を相対視できたことだ。MATSUの用語を借りれば、「両方を選ぶ二者択一」を持てたことだ。
その第三は、広瀬隆著の『文明開化は長崎から』という道具立てを必要としたが、歴史の歪曲という“事実のかすめ盗り”を正すことで、歴史が個と集団とを結び付けるボンドの役割を示しえたことだ。平たく言えば、「死なば一巻の終わり」ではなく、まだまだ続きがあることだ。(ちなみに、広瀬隆の著作は、その無数の具体的事例を彼流のスタイルで、実に丹念過ぎる程に論証している。)
そして第四は、そのようにしてもちろん、個的にも集団的にも、断ち切られることのない連続的かつ永遠のチャンネルを発見できたことである。
こうした四つのチャンネルを駆使することで、俺たちは、たとえ属人的で地球生命的な寿命が尽きようとも、個的にも集団的にも、時間の制限を受けることのない意志継続の場、すなわち《META歴史性》を共有できることである。そしてそれによる新たなホライズンの登場は、俺たちを地球次元から解放し、その《宇宙マップ》を手に異次元の旅へと誘ってゆくこととなる。それはもはやマップというより、いわゆるタイムマシンというべきだろう。
こうして俺たちは、地球的な身体性や物質性――ましてやマネー力――に拘束されずに、自由におのれのエネルギーを燃焼させることができるだろう。そしてその燃焼が人間同士の信頼に基づく時、類としての働きを無限大に発揮するに違いない。
たとえば古代ギリシャの哲学に「ガイア」という概念があった。これは宇宙を生命とみなすもので、それが地球を取り囲み、人間世界を見守っているというものであった。そうした宇宙生命態は、人間の《META歴史性》が宇宙空間に浸み出し、《META交信》を体現しているものと解釈できる。
そしてこのレポートの結びとして加えておきたいことは、「神」という人間にとっての絶対存在は必要かという疑問だ。つまり、この「ガイア」の考えをかすめ盗り、支配者の権威付けの後光として編み出されたものが「神」の概念であるのだろう。上でいう「類としての無限大さ」を支配者が独占する仕組みであった。想えば、類でありながら人類はその神の名において、どれほど相互の殺戮を繰り返してきたことか。
MATSUよ、周囲も驚く順調な回復ぶりを見せているようでなによりだ。でもご免だが、俺の目論見はまだ終わっていないんだな。クモ膜下出血という手荒な手法だったが、MATSUには《META交信》を通じ、「両界体験」がどんなものかをもろに味わってもらった。でもな、俺にとってはまだ、し残したことがある。つまり、それがじいさんたちの「冥途の土産」話どころか、他の誰にとってもの今世のリアルな出来事でもあると言える、その理由でありその根拠なんだ。それも、科学的な。これまで、後回しにはしてきたんだが、いよいよそれを片付けなくてはならん。誰も車のメカなぞ知らなくても平気で運転できるように、その根拠なぞほっといても、俺にもMATUにも、むろん、何らの実用上の不都合はない。だが、ここへはいま一歩踏み込んでおいた方がよさそうだし、いかんせん、それなしじゃあまるで片手落ちでもある。それにMATSUだって、このままで収まっちまったら、この一連の体験は、馬鹿な失敗から生還できた「ラッキーじいさん」の話で片付けられてしまうんじゃないか。
俺は思うんだが、なあMATSUよ、俺たちが交わしてきたこの《META交信》ってやつ、これって、俺がまだ地球時代の頃に読みかじったこともある――確か「科学を脱皮しつつある科学」なんて記事があった――のだが、いわゆる量子理論でいう「エンタングルメント」のひとつの現れじゃないか。もちろん、それは量子の世界、すなわちミクロの世界のことで、俺たち生身の人間のようなマクロの世界の話じゃないことは重々承知している。だがしかし、俺たちの場合、マクロな人間に関することでも《META交信》という特定分野でのことで、いわゆるマクロ世界そのものの話ではない。しかもこの人間の心、すなわち脳の機能にまつわる領域は、脳神経細胞という極めて量子的世界に近接した話じゃないか。言ってみれば、“古典科学”には歯の立たない領域じゃないかな。
ところで、今回、藪から棒に「エンタングルメント」などと説かれても、地球側からは、「何だそれ」って声が聞こえてくる。それももっともだ。そこで俺の聞きかじりの知識なりにその想いを語らせてもらうと、日本語で「量子もつれ」とも言われるそれは、この百年ほどで、物理学の世界の鉄則を根底からくつがえしてきている、科学発想の“超革命的”な転換をもたらしている考え方だ。そしてそれはあまりに超革命的なため、あの天才アインシュタインでさえついてゆけず、そんな「馬鹿げたこと」と拒絶し、そのまま旅立ってしまった。
つまり「エンタングルメント」とは、ミクロの世界でおこる現象で、ひとつの素粒子が隔たった別の素粒子に、何の物質的媒介なしに、しかも瞬時に作用することだ。そしてこの隔たりとは、数キロどころか、たとえ数光年であっても距離とは無関係である。したがって、この現象はある素粒子が同時に異なった場所に存在しうるとの意味すら示唆している。そうした従来の科学常識からすれば考えられない現象のことなんだ。それが、最初のうちは理論上でそう想定されていただけなのだが、この数十年の間で、現実におこる現象として実験により一歩々々と証明されてきている。つまり、アインシュタインが実際にそう言ったように、素粒子同士が「テレパシー」を交わしているということだ。そればかりか、今日では、そうした素粒子のもつ現実の性質の一端が実用にも取り出され、従来のコンピュータとは比べものにならない性能を発揮する量子コンピュータの出現も間近のこととなっている。
そういう脱皮する科学による新科学的根拠を固めつつある――むしろ実態は、既存科学を脱皮させつつある――「エンタングルメント」なんだが、俺たちはその実用化を、量子コンピュータとしてではなく、人間に内蔵された通信装置としてすでに実際に活用してきたというわけだ。いわば内蔵スマホだな。そして俺はこう信じるのだが、人間の脳の働きは、たとえ量子コンピュータの実用化が成功したとしても、それを越えているものだと思う。つまり「エンタングルメント」をフルに体現できるのは、まだまだ当分の間は人造コンピュータ装置には無理だろう。
この間のMATSUと俺との《META交信》の成立で、俺たちにはそういう内蔵交信装置が存在し、それが働きうることが実証されたわけだ。少なくとも、一例として。
つまり、俺たちの《META交信》の企ては、こうして成功裡にその実用化の実験例を作り得たということだ。
ということは、この《META交信》という“超革命的”な能力は、むろん「馬鹿げた」独り善がりな現象などではなく、それは「人間エンタングルメント」とさえ表現できる最先端物理現象だ。そして、すでに「量子エンタングルメント」が物理学の従来の鉄則を揺り動かしてきたように、「人間エンタングルメント」も人間社会の従来の鉄則に、同様な揺り動かしをもたらすことと予想される。
言い換えれば、それは誰にもすでに「内蔵」されている「自前スマホ」を生かすことであり、いわば誰にだってすぐに“まね”のできることだ。なにも、そのうちに売り出されるだろう高価な「量子装置」を待つまでもなく、ただで、いますぐにでも、利用可能ということだ。
そして、もう一点付け加えておきたいことは、おそらくこうした《META交信》的な論議は、これまでなら、それが扱われてきたのは宗教やカルトか、そうでなくとも神秘主義的思想の分野においてであり、科学は厳密にそれを排除してきた。だからこそ、アインシュタインの徹底した科学者根性は、最後までそれを容認できなかった。それが今や、その探究によって科学自らが変容して《メタ化》し、そうした人間らしき分野の少なくとも一部を対象として含み、扱いうるようになってきている。言うなれば、人間そして自然に関する科学的事実認識は、もうそこまで広がってきている。
どうだろう、けっこう楽しい話じゃないか。まして、俺たちじじい同士の与太話なんかじゃ決してないんだよ、MATSU。
MATSUよ、今度のクモ膜下出血からの生還体験は、確かにそのように、ひとつの成功例となった。それはそれで結構なことで、ことに地球上では、めでたし、めでたしの話なのだろう。だが、両界を知る俺としては、それは序盤戦どころかほんの取っ付きで、これからが本番であることを話したいんだ。つまり、前回レポートの「人間エンタングルメント」が実際の現象であるとするならば、その実用や汎用を、量子コンピュータなぞにとどまらず、もっと俺たちだれもの生活や人生の身近な“デバイス”として、活用すべきだし、それができるということなんだ。だから、スマホなどどいう微々たる代用品に目先を奪われる必要はない。言うなれば、“デバイス”を体外装置とする考えを変え、そうした能力を自分自身に取り込んでしまう、《エンタングルメントな生き方》をエンジョイしようってことなんだ。
そこでまず、問題はその活用の方法なんだが、今度のMATSUの体験がそうであったように、その現象は、現実世界では一見、偶然の出来事のようにして、それとなくやってくることだ。決して、派手に仰々しくはやってこない。そこがノーベル賞だの新商品だの、出世だのボーナスだのとは違う地味なところだ。
それはなにせ、ミクロの世界のエンタングルメントが発端となっている現象なのさ。そのレベルのごくごく些細なことだが、世界中、宇宙中に飛び交ってはいる。それに、どんなマクロな存在とて、そうしたミクロの集合だ。
だが、それをキャッチするには、現行の工学技術的には、それは極限ほどにまで精密かつ膨大な装置を必要とする問題で、だからこそ、そうした分野ではまだ、遠い未来の話となる。だが、工学技術上ではどうであれ、今度の俺とMATSUとの場合では、それが実際に行えたのは事実だ。つまり、それは人間に内蔵されている“装置”の活用上の問題で、そのキャッチは、その活用による共振とか共鳴という形で実現する。そしてその共振・共鳴をえるには、同調できる波長や振動がこちら側であらかじめ用意できているかどうかによる。そして、その共振が始まりかけた時、それに気付き、それにエネルギーを傾注する反応が決め手となる。言い換えれば、自分の内の《エンタングルメント性》を高めておく必要がある。
それは、一見、偶然の出来事のようにして到来してきていることに、それを偶然として見過ごさずに、それを糸口として取り上げ、その発展を自ら広げてゆけるかどうかにかかってくる。そういう連鎖反応を芋づる式に自分で追求しないでは、その最初の偶然も、一回ぽっきりで消え去り、ただの偶然でしかなく終わってしまう。
またその一方、その共振・共鳴を乱し、妨害する波長やノイズは極めて多く、時に強烈でもある。そしてそれらが奔流となって、俺たちはそれにチューンすることを強いられ、いわば不必要な情報の受信に駆り出され、無駄にエネルギーを消耗させられている。
今日、一部の人たちの間で、禅やヨガの瞑想の効用が認識されつつあるのも、そうした共振・共鳴の準備として、それがそうしたノイズをスクリーンするのに有効であることに気付かれはじめているからだ。
俺が見るところ、その共振・共鳴を現代工学技術上でこころみている例が、日本ではカミオカンデのニュートリノ粒子の検知であり、アメリカでは、LIGOという施設での重力波の検知だ。どちらも、膨大な実験施設を用いた、超微細な現象の検知である。
しかし、そうしたこころみは今に始まったことではなく、遠い古代でも行われていたんだな。例えば、エジプトのピラミッドは、意外にもそうした装置であったのさ。ファラオの墓だなんて説は、おおきな見当違いだと思うね。
要点を言っておけば、量子理論では、物体の「位置」は実際に測定されるまで値がない。ということは、こちらから自分の位置を特定すれば、相手の位置も決まってくるということだ。偶然とは、そういうことなのではないか。つまり、これを人間作法的に言えば、自分の位置を顕示できないような者には、相手も対応の仕様がないとうことではないのか。だから偶然もやってこないということだ。すごく常識的で分かりやすいことじゃないか。
セレンディピティっていうのも、こういう現象のことを言っているのだと思うね、MATSU。
直観だって、それが自分内部で生じていることさ。
なあMATSUよ、今回のお前の体験は、脳外傷による一種の臨死体験であったわけだ。ただ、確かにその外傷の重症度の軽さのお陰で、この世とあの世の境をなす一線を越えるに至らず、現生に戻ることができた。俗世界的には、それはそれでめでたいことだろう。だが、俺に言わせれば、その一線など、ある連続する旅路の一通過点で、現生に戻れたこと自体は、さほど祝福するほどのことではないのではないかと見る。
ちなみに、そうした通過すべき一線は、どのみち確実にやってくる。つまり、こんどの体験の本当の意味は、またそれがめでたいと言うのなら、現生にうまく戻れたということではなく、その際どい体験を通じて、その旅路の連続性を垣間見れたという発見ではないのか。
話はちょっと迂回するが、実はその後、俺はここで、ある人と出会った。彼にはもう一つの実名があるのだが、彼はむしろこの名を名乗った。それは「星友良夫」。どうだMATSU、この名は良く覚えているだろう。
お前の記憶の通り、彼が喉頭癌で入院していたのは、お前が入院していた病院と同じであり、階は違うが病棟はいっしょだったはず。だが彼の癌の発覚は年末で、精密検査はその年末年始休暇時期の後に回され、それができたのは一月末であった。そして、その結果で判明したのはすでに手遅れな症状であり、遂には、お前が最初に行ったカンタベリー病院のホスピスに送られて、二月末に、息を引き取ることとなった。
たしかに、その癌の発病は、彼の永年の愛煙癖が筆頭原因だろうし、そういう意味では自業自得と断罪されても仕方ない。それは彼自身もよく納得はしているようだ。だが、彼がそう自分に言い聞かそうとしてもそれがならないのは、一方での彼がこうむった医療システムの理不尽であり、他方での自身の最期への自分自身の対処の準備不足であるようだ。
俺自身を振り返ってみても、自分の深酒癖が原因と推定されるアルツハイマー症の発症は自業自得であり、早すぎる死も、自ら招いた結果と言えなくもない。
つまり、俺が言いたいのは、どのみち、人間の成すことに完璧はありえず、ことに、この世の最期をしめくくる時に、あらゆる納得を準備し、それを完遂させるのは神業であることだ。そうではあるが、そしてそれが故に、その一線を、それほどに神経質に考える必要はない。繰り返しているように、それは、なにも終末であるのではなく、通過点でしかないということだ。言うなれば、もし、やり残しや、痛恨の失敗があったとしても、それはそれで、次の機会は用意されているということなんだ。
もっと言えば、そういう終末観は、人為的もしくは作為的、あるいは、地球現世的に作られたもので、本当はそんなものではないということなんだな。逆算世代になったからと言って、縮こまることはない。もっと伸びのびとしててよい、ということなんだ。
話は跳ぶのだが、俺は先に、「人にあらかじめ内蔵された超高性能スマホ」とレポートした。実は、それを証明するいい資料をみつけたよ。それによると、その「超高性能スマホ」の役を果たしているのが脳にある松果腺という小さな器官だ。ただし、その器官の優れた機能は、物質文明の発達に伴って、フルには使われなくなっており、退化すらしているという。実にもったいなく、理不尽な話じゃないか。
MATSUも、今回の経験をもとに、脳障害の共通体験者を見つけたようだね。しかもその人物は、アメリカ医学界の脳の専門家で、そうした専門医学的、科学的視点をもってして、その経験から得た宇宙的な効果について語っている。
ただ、この脳の専門家は、そうした効果がどのようにしてやってきたのか、その脳科学的な説明は片手落ちで、まして、その脳にある松果腺については何も触れていない。どうも、かえってその専門家であることが邪魔をして、まだよく解明されていないその器官がゆえ、そうした限られた発展や躊躇となったのかもしれない。
ともあれ、われわれの命の地球から宇宙への連続性については、そうした専門家も同意する、人間の事実ということなんだな。
それにしても、物質主義的世界観というのは、もはや、百害あって一利なし、ってことだ。
今回のレポートはこれだけにするが、よきクリスマス、そして新年を迎えてくれ。
MATSUにとって、今回のくも膜下出血体験はひとつの臨死体験――俺なんぞは臨死どころか“実死”体験――だったわけだが、一度それを体験してみると、確かに、これまでの世界観なぞは吹っ飛んでしまう。そして、それまでの自分の長い人生も、あるいは膨大で複雑な現実社会も、その体験を境に雲散霧消してしまい、自らやこの世の存在の背後に潜んでいたとてつもなく巨大な深淵に、いきなり放り出されてしまう。それこそ、これまでの自分や現世界が、まったく砂粒のようにちっぽけで、かつ、スクリーンに映じた画像でしかなかったことを覚ってしまうわけだ。
いうなれば、脳とは、人間という高等生物がもつ自家発電式の投影装置であり、それが壊れて映像が消えた時、上映中の映画館が突然の停電に襲われたように、その観客はいきなり真っ暗闇の中に放置され、それまでの映像起源の興奮という自分の存在自体は宙に浮いてしまい、それをいったいどこに持って行けばよいのか、そのやり場のなさに当惑してしまうのだ。
ついでに言っておけば、地球上の人間社会なんて、そうした自家投影装置による興奮同士の狂乱パーティーのようなもので、ある意味で、おめでたくもあり、ばかばかしくもある。そして、その電源が断たれて暗闇におおわれた時、それまでの興奮が幻影以外の何ものでもなかったことに気付かされ、確かなのは今の暗闇のみであることが明白とさえなるのさ。
俺はこっちにやってくる道すがら、むろんそれを体験したさ。だからこそ、その発見をなんとか、MATSUをはじめ、現生のみんなに伝えたく、いろいろ模索してきたところなんだ。そして、それを暗闇体験とは表現するのだが、とても大切なことを付け加えておけば、その暗闇体験とは、恐ろしいことでもなんでもなく、何か、すべての重みがなくなった、無重力のとても快適で幸福な感覚なんだな。MATSUも「果てしなく広がる宇宙と一体となった、ゆたかに充実して安らかで、とても幸せな」と表現してるね。
だが、そういう俺のこころみも、いかんせん、それを伝える方法がなく、現生間のように、電話もなければメールも送れなくて、立ち往生しかかっていた。だが、俺の感覚にしてみれば、実体験してきたように、この世とあの世と克明に線引きされてはいても、その内実は連続したもので、その交流ができないということが、実に歯がゆくて仕方なかった。
だが、何とかならんかともがいていた時、MATSUが自分のサイトの中で、「霊理」ということを書いているのを知った。そしてその「霊理性」を高めるため、たとえば「太陽凝視」といった自己訓練を始めており、この世とあの世の間に一種の通信チャンネルを設けようとしている工夫を見つけたんだな。
その時、「これだ」と俺は思ったね。言ってみれば、MATSUはそうして、自分の中に一種のアンテナを立て始めたわけだ。これを使わない手はない、そう思ったのさ。
そこで俺はにわかに、俺のメッセージを手当たりしだいに発信し始めた。だからそれは、俺の女房にも伝わっているはずなんだが、あいつにとっては、そういうメッセージは、いかんせん、思い出のひとつとして大事に収めておく話なんだな。まあ、それはそれで嬉しいことなんだが、仏壇にむかって線香と「チーン」だけじゃあ、なんせ発展が出てこないじゃないか。
ところがMATSUの場合、まるでHAM無線でもやっているように、俺の発信をなんとか受信して聞こうとしている。そこで、これはいけるとばかりに、それを意識したレポートを発信しはじめたのさ。そしてことに、MATSUの脳負傷を知った時、これぞチャンスとばかりに、俺の発信を集中させていったのさ。そして、そうしたコラボレーションがどのように発展していったのかは、これまでにレポートしてきた通りだ。
ところで、俺の経験から言って、どうも俺の発信は、地球の特定場所の夜明け前ごろがいちばん効率がいいようだ。どうやら、発信した俺の通信は太陽風にのってゆくみたいで、その頃の時間帯がもっとも届きやすい。また、夜が明けきってしまうと、人々の活動も開始されてノイズも増えるし、受信者も動きを開始してしまう。
そんな次第で、「夜明け前」が交信最適時というわけだな。
ニュージーランド・トレッキング報告を見たよ、MATSU。健康上の懸念はもうほぼ解消したみたいだな。おめでとう。俺もうれしいよ、俺の仕掛けたドラマが成功裏に終わってね。
そこでなんだが、こうして達しえた新たな高みを足掛かりに、それだからこそでき、また、それだからこそしなくてはならない、新たなプロジェクトを提案したいんだ。言ってみれば、幸いに目下、命取りの病気の脅威のない人向けに、その「後期高齢」人生を、いかに自由かつ果断に全うしようとするのか、といった計画だ。むろんそのポイントは、繰り返して言ってきている、「連続する旅路」のその《通過点》の意欲的越え方、といったところだ。
ところで、世界屈指の高齢化社会を先導する日本で、「人生100年」といった表現が、頻繁とまではまだ言えないが、決してまれにではなく見られ始めているね。そうした見解への動機は主に、極めて現実的なものが発端となっているようだ。要約すれば、寿命が伸び、健康水準も向上して、これまで「余生」と認識されていたものが、単なる「余りもの」どころではなくなり、人生の三分の一にもなる重要な時期の一つになり始めてきているとの認識に立っているもの、とでもなるだろうか。
そしてことにそれは、MATSUのような年金生活世代向けの話というより、今の現役世代にむけて、現行の年金制度は、君たちがそれを得る時代には、もう確実に不十分なものとなり、頼りにならないどころか、自力の支えを自分で用意しないでは、その長い「余生」期はきわめて惨めなものとなりかねない、との「先見の明」からの警告を発しているものだ。
そういう意味では、年金制度の設計と維持に失敗した政府の責任逃れを黙認する体制援護の見方とも見えなくもない。しかし、失敗を隠蔽するのはどの政府も常であり、それは「先見の明」というより、誰しもの憶測の代弁でもあるだろう。あるいは、その警告に逆ギレして、年金制度を維持しきれない無能な政府への「責任追及」を思い立つ人もいるかもしれない。
すでにこっちの世界にきちまった俺などにしてみれば、そうした援護も批判も、遠い風景にすぎないが、死ぬまで自力で支え続けろなどとは、停滞経済に踏みしだかれっぱなしの現役世代に、またしてもの追い打ちか、と惨憺たる気分になってくる。
ともあれ、MATSUの場合、そうした「余生」を「余生」に終わらせない準備――自らの現実に対応していたらそうなっていたとの偶然もあるのだろうが――にはすでに入りつつあるようでもあり、それを察知したがゆえの先のドラマの仕掛けでもあった。
いずれにしても、誰かのお荷物にはなりたくないというのは誰もの願いだろうし、その意味で、「死ぬまで現役」を続けたく、そのために働き続ける対象や場を確保しておきたいのも人情だ。そういう長い人生を担いえる身体と精神をそなえた自分作りは、どこにも既成のモデルなぞなく、単なる健康志向を越える、今後の人生設計におけるポイントとなるものだろう。
そこでだが、この「人生100年」における「死ぬまで現役」を前提とすると、MATSUにとっては、あと30年という実にたっぷりの時間が用意されているということとなる。少なくとも、もう二回の年男の番が巡ってくる。それをただ、受け身的に消費するというのでは、余りにもったいないし、現実的でもない。しかも、MATSUの場合、オーストラリアの年金制度という、世界平均的に言って、まだけっこう役に立ってくれている年金制度による恩恵も含まれた上での話であるわけだ。そういう絡みで言えば、そうした社会への貢献――日本風に言えば「恩返し」――ぬきでは、近年の写真傾向ではないが、余りにセルフィー〔自撮り〕過ぎる話ということとなるだろう。
そうした展望において、俺の提案したいことは、MATSUのいう「“し”という通過点」という視野の、さらにいっそうの発展と充実だ。それには、確かに、人生を物質現象のみとしてはとらえない、いっそう広い見識が必要だ。そういう見地からは、一般に宗教とよばれる分野へのより深い探究がのぞまれる。ひとつのヒントを言えば、宗教と科学の連携だな。
俺もそれを後押しするために、もっと勉強してゆきたいのだが、例えば東洋の宗教には、「涅槃」とか「輪廻」とか「無為自然」とかと、それを追求した歴史的にも長い伝統がある。それに加えて、現代科学の最先端をゆく量子理論を繋ぎ合わせる融合。それは、これからの日本ばかりでなく地球社会にとっても、決定的な突破口となる重要な着眼点ではないかと思っている。
まあ、個人として、これからやってくる時期は、時間と機会はふんだんに用意されているわけであり、現役時代ほどに、せかされたり責務に駆られることもないだろう。
そういう方向と位置付けで、「新しいプロジェクト」に取り組んでみてはどうだろうか。
なあ、これはMATSUの持論――「《し》は通過点」――にもからむ話だが、それをちょっと別の角度からアプローチしたい。と言うのは、いま俺がここに来て残念に思っていることのひとつ――これはその内でもことに大事なこと――だが、いわゆる晩年にさしかかった自分が、あるバランスある視野を持てず、無念なことに――まあ常識的でもあるんだが――、老境と終末の感覚にとらわれたまま、ここに来てしまったことだ。
その説明のために、ちょっと回り道を許してもらいたいのだが、これは誰しもそうだったと思うが、若いころにはよく、いわゆる《理想と現実》のジレンマに悩まされたもんだ。そしてその悩みは年齢を加えるにつれ、人生経験によろしくもまれて鍛錬され、《観念と因果律》の対立にも至った。そしてさらに、それを人間社会の制度や概念上の対立項として集約すれば、《宗教と科学》とさえ規定しうる人間社会の最大の詰問にまで発展してきた。そうした、結局、解決にはほど遠い地球的問題を置きっ放しにしてきた、などとほざけば誇大癖すぎるが、せめて、俺の「残し忘れてきた遺言」くらいの気分は持っている。
こうした地球的課題を俺なりの軌道修正をほどこし、ことにMATSUの「《し》は通過点」の視角から言うと、《この世とあの世》についての両眼視野の欠如だ。だからこそ、バランスの視点なぞとの均衡感覚が働くはずもなかった。つまり、地球上で生きているうちは、「死」がまさか「通過儀礼」であったなんて夢でさえ考えられず、首尾よく葬儀屋と坊主ビジネスの恰好のお客となる――あるいは、そうはならじと時間稼ぎに精を出す――ことぐらいが関の山だった。
つまり、俺の言わんとすることは、《し》を前にした晩年だからこそテーマにすべきことは、すべての終わりが来ることではなく、それを通過点として、その後をいかに展望できるか、少なくとも、「全巻の終わり」などではないということだ。そう、思春期と成人期の境にイニシエーションの儀式があるように、この世とあの世の間にあるべきなのは、葬式ではなく、《再・誕生》式なのだ。
遠い昔を思い起こせば、むろんそれは、記憶以前の記憶の話だが、俺は母親の胎内より地球に産み落とされてきた。つまり、上で言う《現実》も《因果律》も《科学》も、すべて、地球を前提とする議論であり、その環境をその出発条件としたものであった。
そうした俺が、先に実際に経験した《し》とは、こんどは地球という胎内から、宇宙という環境に産み落とされることだったのだ。つまり、これは地球上の言葉を借りて言うしかないが、地球上では《理想》であり《観念》であり《宗教》とされたものが、この世界では、それが《現実》であり《因果律》であり《科学》となるものなのだ。このスライドは、実に意味深長だと思わないか。
たとえば、精子時代の俺の半分と、卵子時代のもう半分が、人間界ではけっこう意味ある合体の祭礼をへて、その半分同士が組み合わさって俺が始まった。そうした胎内で起った通過儀礼と、その結果の俺が、こんどは地球上での生命が終わったとしてこの宇宙に放り出されてきた通過儀礼と、むろん形や場は大いに異なっているが、連続しているのは確かなことじゃないか。
問題なのは、そうした一切を、別のものと分断してしまっている、地球上の人間たちの意識や観念のおかしさじゃないのか。
むろん、いっそう想像をたくましくすれば、この宇宙界での生をへてその晩節に至り、そこでの《し》がやってこようとする際には、さらなる《理想》や《観念》や《宗教》がさらにやって来るのだろう。
まあ、神ですらそれを神と呼ぶ、そんな超々次元はさておくとして、ここにひとつ付け加えておきたいことがある。
最近俺は、ここに来てもはや千数百年になるというある大先輩に出会った。彼は地球時代には「空海」と名乗っていた御仁とのことだが、彼はなにやら重々しく俺にこう言った。「その誕生観こそ即身仏で、そのアイデアが真言だ」。
MATSUよ、ここに来て俺は、奇妙な意識の違いを発見している。それを説明するのはいささか面倒なことなんだが、それを手短に言えばこういうこととなる。すなわち、俺が地球にいたころ、俺は俺の主で、その自らの主人意識には、いささかの曇りはなかった。むろん、時にはその自信が揺らぐことや、逆に普遍的人権なぞと大上段に振りかざすことはあったが、それも、その主たる意識があるがゆえのことであった。それがここに来て思えてきているのが、どうやら、俺は俺の主であるどころか、俺という身体を借家して住んでいるテナントに過ぎなかったということなんだ。つまり、家主に出ていけと言われればもうそこには居られず、俺がここにやってこざるをえなかったのも、その家が老朽化し、どう修繕しても、もはや住んではいられなくなったからだと言える。どうだ、面倒どころかえらく突拍子もない話だろう。だが、それが真実のようなのだ。
ところで、近年の地球では、その生命の起こりは、一種の情報として、宇宙からやってきたという説が次第に説得力をもってきているね。日本も小惑星へ探査機を飛ばすなどして、その証拠集めに奮闘している。ということはつまり、そうした発端を持つ数十億年という長い生命の進化過程において、その最先端的な産物ともいうべきものが人間ということだ。そして、その立って歩くことによって結果した、他の動物には見られぬ高度に発達した脳という神経系統は、意識という「自己投影とその鑑賞」装置まで持つようになってきたということなんだ。そのナルシスな審美装置を意識と銘打って、誇大妄想視しているだけなんだ。なんだか、このせつの地球で、民主主義が自分主義の膨大なごっちゃ混ぜと化する中に、機能しなくなってきているばかりか、相互の敵対心ばかりが大手を振っている情勢も、そのナルシスの君臨状態と見れば納得がゆく。
以前に「停電した映画館」のたとえ話をしたが、この俺のいる宇宙の壮大なる異次元界から見てみれば、それがたとえ偉大な進化と自己解釈されていようとも、地球上の人類のありさまとは、人類が自分でそう考えているほどに、中心的でも、先進的でも、まして普遍的でもない。ただ、そうした進化の先端において灯った意識という偶然的結果に、そうした映像が投影され鑑賞されているに劇場現象すぎない。言ってみれば、ハリウッド産業のような、身内の身びいきのような絵空事。
そうした“俺様中心意識”が、ここではまったく通用しない。それどころか、そんな個別で特異な中心観なぞ、存在のミクロのそのまたミクロな、超極小片りんの事柄にすぎない。それを擬人化して言えば、いま人類がその素粒子物理学において、物質の元となるその極小の単位が意識をもつと唱えられ始めている、その極小単位が、人類であるかのような話なのだ。物理学では、それを「局所的」と呼んでいる。そして人間たちは、物質も俺様のように、意識をもっていたのかと驚いてさえいる始末だ。
考えてみたらいい。もし、その“俺様中心意識”が、その身体に仮寓している独りよがり男のいきがりであったとしたらどうなのか。そのいかにも傲慢で横柄な中心観も、その肉体という生命現象あってのお陰のことだ。その厳密な事実を忘れて、そういういきがり男たちは、どれほど自然の生命現象をないがしろにしてきたことか。まあ、だからこそ死が苦痛で恐ろしくてしょうがないのだろうが、それも身から出た錆ということだろう。それに、近頃の地球では、人間の半分が他の半分の傲慢のほどに我慢が切れて、Me-tooだのWe-tooだのと反撃をはじめている。しごくまともなことだと思うね。
ところでMATSUよ、こう言いだすとますます面倒な話となるが、MATSUがMOTEJIと呼ぶこの俺は、そういうMATSUのその意識の産物なのじゃないか。
まあ、いわゆるフィクションとして、そういう架空の存在を設定して話をすすめる手法は判らんでもない。それはそれでストーリーにはなるが、それがMATSUの独りよがりでないという証明はできるのかな。あのニーチェもツァラトゥストラという語り部を必要としたようだが。それとも、この異次元の話を地球化するには、そうしたテクニックも不可欠ということかな。
MATSUよ、先にここで、俺が「もと空海」と名乗る男に出会ったという話をした。その「もと空」に、このところ、いく度もコミュニケートしているのだが、実に興味深い話を聞かせてもらっている。
「もと空」がこの世界に来たのは、もう千年以上も昔のことだというが、ここでは、千年だろうが万年だろうが、そんな時間的長さという次元は意味をなさない。ともあれ、彼が言うには、彼がかつて暮らした地球上の東アジアで、千三百年ほどをへだてた間ながら、よく似た情況が生じつつあるというのだ。
それは、思想的、霊性的変遷としての《分化と包摂》が、地勢的情況もさることながら、千余年の歴史的隔たりにおいても、<同時的>に発生しているということだそうだ。
実は、彼がまだ生身の地球人であったころ、彼は、その頃、「倭」と呼ばれていた国の讃岐という地方に生まれ、当時の都である平城京で大学教育を受けたという。この平城京は、当時の最先進国である中国の首都、長安をモデルとして建設された都だった。つまり、東アジアの辺境の島国である日本にとって、中国なり長安は、文字という文化から都市というインフラ、そして宗教という精神までをモデルとして頂く、模範世界であった。
そういう時代、彼は僧侶として平城京での学びの道を歩みながら、二十歳そこそこで道儒二教の限界を見出してしまう。そして大学をドロップアウトして、故郷四国の山岳に修験行者して大自然の鍛錬に身を任せ、早くも、宇宙と地球の自然の連続性を実体験する。そういう自分を彼は「愚者をよそおい智をかくし、おのれの光をやわらげてあえて狂をしめす」と言う。そして、仏教に最高の可能性をかぎつけ、その原典をさぐりに唐に渡り、長安でそれこそ最先端の宗教世界に触れる。
そこで達した彼のマイクロコスモスとミクロコスモスを結合させた思想的高みは、日本、中国、インドという三界の宗教を超えた自分の思想、真言密教の構想へと結実する。それは、現実の最先端世界のインド亜大陸を含むアジア大陸の思想を吸収しつくしてかつ、それを島国日本に根付かせて、至上の宗教世界を創出しようとするものであった。
そういう「もと空」の視野から見れば、7世紀の白村江の戦いで、日本と朝鮮の連合軍は唐の大軍に敗北して朝鮮は中国の配下にくだり、東アジアに圧倒的版図を広げる唐が出現した時代と、今、東アジアにやってきつつある情勢は、実によく似ているというのだ。だからこそ、当時の中国の侵略を脅威とする日本は、遣唐使という友好を装った偵察隊を定期的に送って敵情を探り、あわせて、その優れた文明は貪欲に学びとるという、両面作戦を展開してその時代に適応したのだという。
「もと空」は、そういう時代にあって、20年計画の唐への留学をわずか2年に濃縮させて帰国する。それは、すでに当時の唐では、彼の留学の目的であった密教仏教は、もはや後継者も持てずに最盛期を終えつつあり、彼は、それ以上の滞在の無駄を思ったがゆえの2年への濃縮だった。さらに、その秘伝の灌頂を受け、多くの密教原典を譲り受けて日本に持ち帰り、遷都なった平安京に東寺という彼の真言密教の拠点を開いて、三国の粋を集めた思想を日本の指針として広めようと志す。これこそまさに、「分化と包摂の同時進行」の具現だと彼は言い、この両面作戦こそ、外交政策面でも、その根底をなすべき考えだとしている。
また、その「分化と包摂の同時進行」を霊理的に展開したものが、彼の密教思想だと言う。その時から「もと空」は、この世と共に宇宙を構想していた。それが、彼のいう「即身成仏義」で、仏になるとは、生きたままミイラになって成仏することなぞではなく、生きるということが宇宙の命という仏に、分かれているようで一体である、それが成仏することであるということらしい。
なあ、MATSUよ、俺のお頭で理解できるのはこんな程度なんだが、それほどに、現生とあの世は連続していて、まさに俺が体験したように「《し》とは通過点」であって、一体であるということなんだ。
それに、「もと空」の話を聞いていて、俺は、今日の科学世界の最先端をゆく量子物理学者の世界観と何やら重なり合うものすらを見出している。千三百年もの昔に生き死にしていた男の話がだ。まさに、時間など無意味である、「同時進行」じゃないか。
そういう視界から、焦点をぐっと落として足下に目をやれば、「ソンタク」だの「カイザン」だのと、極度に醜悪で、小心かつエゴむき出しな、保身の手練手管に奔走する今日の日本の率い手たちは、「もと空」といった大先達に思いをはせれないどころか、逆に、この掛け替えのない社会全体を道連れに、共々に地獄に落ち込もうともがきまわっている。時代はまさに、その千余年に一度の歴史的な変化の真っただ中にあるというのにだ。その無責任・専横ぶりたるや、右翼諸君の表現を借りれば、その罪は「万死」に値しよう。
六ヶ月振りのレポートだが、この間のヒマラヤ・トレッキングの成功、おめでとう。昨年のあれほどの劇的体験の雪辱戦だっただけに、達成感は内心、相当なものだろうね。ともあれ、昨年の“陰”と今年の“陽”の両体験を合わせて、普通ではちょっとできない、なかなか多彩で内容深い70歳台前半となったのは確かだろう。
ことに、こちらからでも注目できたのが、ヒマラヤ・トレッキングの文字通りの山場での恐怖感の乗り越えと、それに呼応したかのような雪崩発生の話だね。
むろん、そうしたエピソードは、地球次元では、偶然か、こじ付け、とでも片付けられかねないことだろう。だが、そうした地球上での凡庸論を尻目に、そこに呼応関係を見出しえたことは、少なくとも、並みな仕業ではないと言っておこう。
前回、「もと空」との話をレポートしたが、彼が「真言」に託した思想は、地球上では以来千年以上をへてきたのだが、他方、俺がここにやってきてここの気配をレポートしつつ、MATSUに画した先の臨死体験という《実験》――その「真言」の要所の今日的実践――も行い、結局、それは大いに成功したということだ。
地球上のあまたのそうした凡庸論者は、そのMATSUの心的作用が、どのように雪崩現象という結果を引き起こす原因になりえたのか、その因果関係を述べよ、と問うかもしれない。例えばそれは、大きな音のような、強い空気振動に相当する作用でも発生させたのかと。
俺に言わせれば、そうした因果関係の問いとは旧来科学の枠内の発想にすぎず、宇宙次元から見れば、まるで針の穴にもならないほどの、実に限定された範囲の関係にすぎない。実は、あの雪崩は、MATSUの内的対話を聞いて、俺が起こしたものとさえ言いたいほどだ。
つまり、内的世界とは、そのようにつながっていて、一体だということなのだ。それを俗の人間たちは、そうした遣り取りは独り言のようなもので、自分でそれを押し殺したり、無視したりさえできれば、誰とも関係のない私事と高をくくり、孤絶しているだけの話なのさ。
現に今度のMATSUの場合、実際にその対話の効果がもたらされ、緊張は解消し、恐怖も消え去り、脈拍まで下がるという身体現象まで伴ったのだから、それはもう、偶然とか、こじ付けの類では決してない。
それをひとつの説話風に仕上げれば、ヒマラヤの自然の女神は、そうMATSUを歓迎し、その不必要な緊張をときほぐし、失敗することなく目的を成就させて、自分のふところ深くに招き入れたのさ。なんだか、やけにセクシーな話と思わないか。
ところでMATSUよ、君もかくして、二年にわたる一連の陰陽体験に基づいて、いよいよ、自説の「霊理学」も、本物の学の領域に発展させるべく、宇宙に向けて打上げてもいい段階に来ているのじゃないか。
確かに、個人的必要として、おそろしく時間のかかるそうした学的発展結果を待っていられぬ老人たちにとって、自分さえ納得できるのなら、「思い込み」と言われかねない説であろうとも、十分に意義あるものとする立場はあるだろう。そう、やがての旅立ちは間違いなく、一人旅なんだからね。
そこでなのだが、横槍を突っ込むようだが、ここで俺として是非とも薦めたいことがある。それは、そうした信念としての霊理学を、その個人的仮説の段階から、公的議論、あるいは、実証の域へと持ち込んでいってもよいのではないか、ということなんだ。むろん、この実証とは、旧来科学のそれとは、手法も発想も、革命的に違ったものとなるはずだがね。上に俺が《実験》と述べたように、俺とMATSUとのそうした次元を股に掛けた対話こそ、新たな実証方法となると踏んでいるんだがね。まあ、そうした実証実務は、幾段ものステップを越える必要があるのは間違いなく、いまの段階ではほんのとっかかりに過ぎない。とはいえ、旧来科学の枠内で言えば、《理論》霊性学といった、「紙と鉛筆」――今日風には「PCとキーボード」――の次元のアプローチは可能だと思うよ。
さて、ここで話を先に進めるが、俺は、今度のMATSUのトレッキング達成を目撃して、こうしたレポートとして、異世界からのアドバイスを送る役目は、もう、十分に果たしたと感じた。だからこそ、上のような提案もしたいのだ。
そういう次第で、もう間もなくの2018年――MATSUの年男の年――の閉幕とともに、このMOTEJI越境レポートのシリーズも閉じたいと思う。
そう、MATSUもそうであるように、「霊理学」の進展の恩恵を最もつぶさに受けるのは、いわゆる老人たち、中でも、老人と呼ばれることに違和感をもつ《人生二周目ウォーカー》たちだ。その元気な足取りを、ただの運のよい巡り合わせとして自己消費するのではなく、切り拓かれるべき人類の新領域のまさに当事者として、もっと創成に精を出せるはずだと信じている。
それにMATSUも、すでに俺との対話の方法はマスターし、俺もかくして俺のメッセージを次元を越えて移植することに成功したわけだから、このレポート・シリーズの役目は十二分に果たされたと思うのだ。
じゃあ、また、別の機会に再会しよう。
【完】