今度の総選挙で、自らの落選と最高顧問の責を負う「次世代の党」の壊滅的結果を受け、石原慎太郎が政治家としての引退を表明しました。曰く、心残りは「憲法を一文字も変えられなかった」。
そういう脈絡では、憲法を守る目的は、一部成功したかとは言えます。
しかし、憲法を守る戦いの本来は、それが私たちの社会をよくするためであったはずで、にもかかわらず、あらぬ迷路に陥っている、との感を深くしています。
というのは、現今の低賃金にあえぐ若者たちの間では、「憲法を守る」などとは、もう、「セレブの議論」にしか聞こえないといいます(「週刊金曜日」2014年11月21日号、p. 29 参照)。
それもそのはず、彼ら彼女らには、自分が憲法によって守られたなどとの体験を味わったこととなどなく、守りたいのは、憲法どころか、まずは自分たちの生活だとの思いは痛切だからです。
私の身辺でも、オーストラリアでワーホリや就労学生として5年間をすごし、日本ばかりでなくこのオーストラリアの地でも、低賃金労働者の苦境から抜け出せなかった働き熱心な《日本》の若者が、この12月初め、あたためていた希望を断念して、《故国》に帰ってゆきました。
その彼が残していった言葉は、
「Give up」です。ギブアップですw
今現在資本主義で日本が、世界が成り立っているのであれば、
ガンガン資本主義に飲まれていく気持ちでいます。
その彼は、久々に戻った日本で、この選挙での自民党圧勝を歓迎して迎えているはずです。アベノミクスがたとえどんな経済であろうが、それ以外に頼れる選択が、もはや彼には残されていないからです。
数年後、それでも彼が、底辺生活から抜け出せなかったら・・・
私は確信をもって言えます。それは、彼の能力ゆえにでは決してありません。
まさに、神にでも祈りたい気持ちです。