これは私の感傷にすぎませんが、連載の訳読をしてきて、年甲斐もなく、しかもなお、この年に“ふさわしく”、その数々のくだりで、大いに発奮させられたり、視野を新たにさせられたりしています。前回の「科学か疑似科学か」で述べたように、本訳読に展開されている議論は、そうした境界領域に属する、まさに“超”先端的分野です。つまりその多くはいまだ検証の過程にあり、だからこそ、「疑似科学」と呼ばれ、それですむならまだしも、「まがい物」扱いさえされています。しかし、それは私にとっては大した問題ではありません。私にとっては、逆算段階に入った人生の限られた時間のなかで、自分が「これはいける」と判断される、そういう内容であるかどうかがポイントです。終盤にかかりつつある人生への、いうなれば、一種の《媚薬》としての働きに、内心、強く期待されるところなのです。 詳細記事
人生終盤への《媚薬》
〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その13)
科学か疑似科学か
〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その12)
連載中のこの訳読に展開されている諸議論は、突き詰めて言えば、「科学か疑似科学」と取りざたされる、各々の境界上の分野です。そして、もし私がもっと若かったら、また実際に若かった頃には、そうした一連の議論を、「まゆつばもの」として一蹴していましたし、大いに権威に無防備なところもありました。
しかし、そうした若気の時代を通過し、今に至って感じていることは、「科学」が扱っている領域はどうも狭すぎるという到達であり、またその科学の世界も、自身でそうした狭さを破って、かつては疑似科学として扱われていた分野にもどんどん広がってきています。
そうして、むしろ今ではそうした狭さが故に、一般に科学といわれている分野が、ことにそれがビジネスと結びついた場では、こんどはその科学自身が「擬態科学」――多くはごまかしに乱用される「ご都合科学」――に変貌し、信用に値しない代物となるに至っています。 詳細記事
《殻》が破られる爽快さ
〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その11)
寸足らずの言葉
〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その10)
私はこのごろ、自分の用いている言葉が、どうも寸足らずで不自由な気がしてなりません。それはことに、「越界-両生学」に取り組み始めてから、その異次元の世界を表そうとすることに、この現世に適して発達した言葉では、いかにも事足りないのです。いや、より正確に言えば、その表現以前に、その世界を想像すること自体が、今の自分に与えられている言葉を用いていたのでは、なかなか足手まといであるようにさえ思えるのです。 詳細記事
新しいもの崇拝症
〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その9)
おそらく誰もがそうではないかと思うのですが、私には、「新しいもの崇拝症」といったようなところがあります。たとえば、薬屋で売っている薬品のほうが、野原でとってくる薬草を使うより、正しくかつ進んだことだという暗黙の信念があります。いや、正確には、ありました。そういう、いわば「近代的なもの」への信頼が、ここのところ日増しに揺らいできています。
年寄りの復古主義と言われかねない傾向で、その一例かも知れませんが、他方、「年の功」という言葉もあります。
ともあれ、今の自分が過去の経験の上に達した、一連の「知恵」とよんでいいようなものがあります。今回の訳読は、そうした私の傾向を、きわめて力強く後押ししてくれるものです。
《霊性界》を新認識する
〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その8)
今回で、「松果腺」の章を一気に完了させました。
そこで見出せたものは、タイトルのように《霊性界》をいっそう「新たに認識」できたことです。それにあたっては、この松果腺の働きの理解は要となります。そしてそれをひとことで表せば、松果腺とは「第三の目」の源であり、可視光線以外の波動――つまり目では見えない電磁派や磁界――を受信して《観る》、言ってみれば、私たちの身体がもつ《自然の「レーダー」装置》ということです。伝統的には、私たちはそれを「千里眼」とか「心眼」とかと呼んできたわけですが、そこにはどことなく非現実的なひびきがありました。しかし、それを《自然の「レーダー」装置》と考えれば、そうしたひびきも大きく後退します。そしてむしろ、この装置を、フルに活用してみたくもなります。 詳細記事
「フッ素は歯にいい」はずだったが
〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その7)
本章のタイトル、「松果腺」とは、脳の一部位のことです。
医学書でもないのに、いきなりこんな詳細な題名が登場するほど、本書の原著のテーマは多義に踏み込んでいます。
そればかりでなく、なぜ、こうした医学書並な題目が取り上げられるのか、今回は、私の私事による制約のため、ほんのさわり部のみとなりますが、それでもその議論の奥行の深さを感じさせられると思います。 詳細記事
「そもそも論」であり「訓詁学」であり
〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その6)
今回の訳読は、「現代の『東西融合〈涅槃〉思想』」の冒頭に置かれた著者の巻頭言で、本書執筆にあたっての彼の基本姿勢を述べたものです。
そういう意味では、やや形式的役割をおびた部分であり、具体的議論にはいたらないものです。しかし、前回と前々回で述べた「DNAミステリー」を読まれた読者は、それがいったい、どのような立場から書かれているのかと気になられたのではないかと推察いたします。つまり、そういった「立脚点」を確かめたい向きには、当たっておきたいくだりではないかと思います。 詳細記事
ほぼ“泣き言”なコメント
〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その5)
ともあれ、この「訳読」には、一切の誇張なく、苦心さんたんしております。
言ってみれば、専門分野の先端中の先端のそのまた最先端を、しかも、冴えわたった直観で織り込んだ議論でありまして、とてもとても、一筋縄で取り組めるものではありません。適切な日本語の選択から、むろん、言わんとしているメッセージが何かをくみ上げるまで、この訳読は実に、千里の旅をするかごときであります。
従って、この初版ともいうべき今回の出版には、追って今後、重ねての修正が必要となってくるのは間違いありません。その度ごとに対処してゆきます。 詳細記事
《宇宙への風穴》:生物学編
〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その4)
私がこの連載「訳読―2」(今回より{訳読―2b)を含む)において、ブラッド・オルセンの「東西融合〈涅槃〉思想」シリーズの訳読に精を出している理由のひとつが、私たちの存在の根源が、タイトルのように、《宇宙への風穴》をもっていることにあります。ことに私はそれを、「逆算のカウントダウン世代」の一人として、別掲のような『「通過点としての《し》」宣言』という観点からも、自分の永遠の旅立ちにからめてそれをえて考えています。
その4回目である今回は、その《風穴》を、生物学の観点、とくに生命の発生にかかわる遺伝学の分野からみてゆきたいと思います。
そこで取り上げるのは、同著者の「東西融合〈涅槃〉思想」シリーズの第二冊目である『現代の「東西融合〈涅槃〉思想」』のうちの「DNAミステリー」です。 詳細記事