両輪という財産

私の健康エコロジー実践法 =長期戦編=その26

Day 170+403(10月12日)

7日朝、ヒマラヤ・トレッキングから帰宅し、翌日からは店の勤めや更新の記事書きと、きつい一週間でした。昨日、更新をアップし終え、早めに寝て、8時間、爆睡しました。おかげで今日は爽やかです。

インドの下界での大気汚染が原因だと思われる咳とタンの絡みがつづいています。以前、中国から帰った時も同じ症状がありました。

十年ぶりのインドで、国の変わりぶりはたくさん発見できましたが、その代償がこうした汚染です。日本も1960、70年代はこうした状態でした。しかし、大陸国となると、汚染の広がりの規模が違います。

今度のインドでも、上空2000メートルほどまで、汚染した空気が地上を絨毯のようにおおっていました。帰りの飛行機の窓からの観測では、機がデリーを離陸してガンジスの河口デルタ地帯に差し掛かるまで、雲はないのに、地上はかすんでよく見えませんでした。ただ、汚染した大気層のはるか上空を飛ぶ機窓からは(写真)、遥かかなたに、アンナプルナ(左手)やエベレスト(右手)のスカイラインが遠望できたのはラッキーでした。

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Day 170+404(10月13日)

来年の満70歳記念プロジェクトを考えるにあたって、今回、眼前の白き峰々を眺めながら抱いた《6千メートル級峰登山》というアイデアを、いま、検討しているところです。つまり、人生のこの節目(来年のこの時期)において、そうしたチャレンジが、いったいどういう意味を持っているのかと。

今回、トレッキングをしていて、同行のガイドの二人から同じように、こんなことを言われました。「あなたはリズム・ウォーカーだ」。

さもありなん。若いころから、山歩きはさんざんしてきたわけですから、そんなくせをもっていたとしても不思議ではないでしょう。

そこでです。むろん若い時分は、ただ、好きで我武者羅にやっていただけですが、その「好きこそものの上手なれ」で、この年齢におよんでも、5千メートル級の世界も、そのおかげで、なんとかこなせたわけでした。

そこで思うのですが、この「上手」というのは、私の《財産》と考えていいことではないのか。

いうなれば、年齢相応の経験という《片輪》と、ふつう、それ相応に不足しているはずの身体力という他方の《片輪》がこのようにまだまだ維持されていたということです。つまり、通常なら難しいはずの《両輪》が、こうして共に備わっているということなのではないか。若い時なら「健全な身体に健全な精神」とでもいえることが、70界隈にいたってなら、「十分な経験にまだまだな体力」とでも言えるのでしょうか。

自慢できる話ではないですが、私はいま年金、借家暮らしですし、いわゆる財産というほどのものは無きも同然です。しかしこの《両輪》は、税金もかかららず、保管の場所もいらず、誰にも盗まれもしないだろうひとつの《財産》であり、もしそうなら、そうした独自の《裕福さ》をフルに味わってみない手はないでしょう。

というよりむしろ、こうした至り付きは、決して予見の上で得られたものではありません。そういう意味では天恵な授かりものです。そしてそうであるなら、このいわば、知力と体力の稀有な共存の効用を試してみるのは、ひとつの使命であるのかもしれません。

今回も、テントの中、深夜にふと目が覚めた際など、高度による頭痛に悩ませられながらも、きわめて冴えた頭がそこにあるのに驚かされました。下界で考えたり思いつくことと、たしかに尺度や視点が量も質も違っているのです。あたかも、宇宙の息吹に直接ふれているような。

そうであるなら、さてはて、来年の今ごろ、自分をもう千メートル持ち上げてみて、はたして、いかなる「冴え」が待ち受けているのでしょうか。それは単に、地理的な千メートルに尽きるものではないはずです。

宇宙から戻った宇宙飛行士たちは、ほぼ誰でも、その体験からある種の「神々しい」ものを持ち帰っているといいます。

私の体験は、彼らから較べればまだまだ地球上のものにすぎませんが、垂直移動としては同質のものなのかもしれません。

 

Day 170+405(10月14日)

私はこれまで、両生学という視点を、主に地理的な水平的移動を主眼に置いてきました。むろんその発展には、思考的なメタ発想もありました。

しかし、今回のトレッキング体験とは、そうした水平移動とは異なる、垂直移動の世界です。そしてそれがゆえの、高さという環境に身をさらすという体験です。

私は、この垂直方向の移動が、なにやら、《霊性的》という言葉をあえて使いたい、きわめて特異な移動であった感じがしています。

(若いころから山にはさんざん登り、そうした垂直移動感覚を同じように感じていたはずです。しかし、当時はこの言葉を知らず、むろん、あてはめてもいませんでした。その後年齢を加えてこの言葉を「造語」し、その感じをそう特定するようになってきました)。

ちなみに、今回たどったルートは、ヒンズー教徒がその巡礼にたどるルートにほとんど従ったものです。つまり、そうした彼らが聖なる川とあがめるガンジス川の源をともにたずねることで、この世の本源や原点のなにごとかに、同じように出会っていたのかも知れません。

むろん、私はヒンズー教徒ではありませんので、その源、つまり氷河や高峰に接してそこより受け取るものにも違いはあると思います。しかし、受け取りように違いはあれ、ともに体験しているその環境そのものは同じものです。

ひとことで言って、そことは、それだけ、《宇宙》に近い場であるのではないか。宇宙飛行士たちがまさに体験してきたように。

 

Day 170+408(10月17日)

私は、その後も、太陽凝視を続けています。昨日も夜明け時、近所の公園まで出かけていって、木々の向こうから上ってくる太陽を見つめていました。

そうした太陽凝視をしていていつも感じることですが、その最中、どういうわけか、朝日の中を飛びかう鳥たちの存在が、とても身近に感じられるのです。これは、夕日の場合でも同じです。何というのでしょうか、その鳥たちのさえずり合う声がよく耳に入ってくるのはもちろん、何か同じものを共有しあっているような、そんな感覚なのです。たしかに鳥たちも、枝や電線に止まりながら、いずれも太陽方向を向いているようです。

 

Day 170+411(10月20日)

私の70歳記念プロジェクトについてですが、昨日、日本から連絡があり、以前から友人たちと計画中のカナダ旅行を、ちょうどその頃に実行したいとの話がきました。この計画は、旅行に関してならその道のプロであるパートナーのTが企画を請負う段取りともなっており、そうとなると、こちらが優先されることとなります。

そういう次第で、この時期での両方ともの実行は無理ですので、私のプロジェクトは、半年延期して、再来年の5、6月ごろの実施が妥当となりそうです。それに私の興味としては、この季節のヒマラヤははじめてですので、それはそれで興味を引かれます。

ともあれ、来年からの私の十年紀は、盛り沢山な出発となりそうです。

 

 

 

 

 

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