まだ終わらない「神様ごっこ」

  憲法改正考(その32)

今回の代替わりに伴うもろもろの儀式ですが、あれはどう見ても、もってまわった「神様ごっこ」にしか見えませんでした。よく見ても、各地の地元神社に伝えられる「お祭り」行事を越えるものではありません。

私は、各地方に脈々と伝わる「お祭り」をないがしろにするつもりは毛頭ありません。むしろ、深く足下に根差す自然とのつながりを尊重するそうした伝統行事を、環境やエコロジーの重要さの別の角度からのアプローチとして、人間生活に忘れられてはならないものとも考えます。文化とよばれる社会の深みの一部です。

しかし、同じように神妙厳かに行われる伝統行事であるとしても、そうした自己根源にも触れるローカルな繊細さと、「10連休」を上からかぶせた国を挙げての仰々しさとは、似てはいても、まったく異なるものです。

そうした自己根源的でローカルな「祭事」への愛着として、私は、「日本」が、百も二百もあっていいと思います。しかし、たったひとつの「日本」という仕組みは、それは人為的なもので、いわばみんなでその国民になろうと合意する近代的社会生活の合理的単位です。その約束事が、憲法に始まる諸法規です。

歴史的には、そうした作為的な混同は、明治政府が仕組んだ「国家神道」――地方のもろもろの神社を統廃合して明治神宮下に一体化――を始点としています。迫りくる列強と伍するための「結団形成」の緊急策であったのだとしても、そのための方便とされた国をあげての「一家意識」は、いまだに日本人に「親離れ」できない小児意識を残しています。

こうした「神様ごっこ」は、10連休中でも終わらず、今後もあれこれと続くという。

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