第17日(2023年2月7日〈火〉)
両足をかばって、散歩と戸外ストレッチで済ます。
第20日(2023年2月10日〈金〉)
これは自画自賛だが、当サイトの副題「人生二周目」とはなかなか言えている。一周目と二周目ではモードがガラッと変わる。要するに、二周目になれば、自分の行動の決定理由が、他人責任=他人任せから自分責任=自分任せに変わるのだ。
その責任転換のひとつに、健康がある。そして、その健康責任負担能力のうちの重要なものが、食うこと。
我々は日ごろよく、「おまんま食えないから」と言って、「働く」と「食う」を同列に並べる発想に従う。端的に言えば、我々が動物時代、食うことが働くことだったその鉄則の記憶だ。すなわち、食うためには猟や収穫という働きが必要で、食うと働くは分かれていないのが当然だった。それが雇用が必至の時代となり、お金が媒介に入って、食うと働くは分化した。
こういうわけで、リタイアでもセミリタイアでも、退役=非雇用生活が主舞台となる二周目では、再び、その分化がなくなり、食うことと働くことが直結する。つまり、自分で自分をどう食わせるのか、その違いがその人を左右する。
まず、食わせることができない御仁は、早々に姿を消さざるをえない。
次に、それを他人に頼れば頼るほど、その依頼のパターンは色々となるだろうが、要するに、自分に必要なことが他人に決められ、命の消耗がおこる。
そして、それらをようやく克服して自分にすべてが任され、この「自分で自分を食わせる」段となるのだが、それは現実的には自炊や料理能力しだいとなる。言い換えれば、料理スキルの有無で命が左右される。
よって、人生二周目のリスキリングとは、料理スキルの習得が中核となる(ついでだが、うまい料理を食わせられる人の評価は格段に高まる)。
もっと言えば、二周目では、生活に必要なあらゆるスキルがこなせる、マルチスキリングが決定的となる。自活生活とはそういうことで、ぼやぼやしている暇など少しもない。
第22日(2023年2月12日〈日〉)
第23日(2023年2月13日〈月〉)
思うのだが、人の足のひざ下の構造として、足がかかとを角としてL字型をしており、この直角を維持して、その先の五本指を操る筋肉や神経は、すねを通って居る。どうもこの辺が、トラブルが足先に集中する理由のようだ。つまり、人間が足って行動をする、その微妙な動きを調整する役目が、この足先にかかっているということのようだ。
今日は、1200メートルを泳いだのだが、両足先の違和感はつきまとっていた。ターンの際の蹴りも、ほどほどにしかできない。
第24日(2023年2月14日〈火〉)
第26日(2023年2月16日〈木〉)
第28日(2023年2月18日〈土〉)
第29日(2023年2月19日〈日〉)
そこでだが、もし僕が瞬時に働く全記憶再生力を持っていてこの全記事群の自分を再現できたなら、それは時間的に積分された自分の出現となる。そう、この断面の〈微分自分〉と全記事群の〈積分自分〉との二者の自分の出現だ。
この〈積分自分〉としての膨大な情報集積って、一体、何なんだろう。
それを《集積自分》と呼ぶとする。
この《集積自分》という、用語としては数学的概念なのだが、そういう自分って、何なんだろう。
そこで確かなことは、その全容を自分でも記憶していないくらいだから、この《集積自分》の存在を知る人は誰もいない――まさか誰か、その膨大な記事を完読して記憶している人なぞ絶対居るまい――こととなる。
(もし、このサイト情報が消されたら、その存在すら永遠に消滅する。)
僕が著名な作家なら、「〇△全集」などと出版物として残されるのだろうが。
今それがあるのは、サイト情報としてのものだけで、技術的な意味でもきわめて不確かで、吹けば飛ぶような存在だ。
そもそも、情報とはそういうものなのだろうが、結局、自分が丹精込めて生産してきたものとは、それほどに幻的なものなのだろうか。
以前、「e永代供養」などといったことを考えたこともあるのだが、、、、
ともあれ、自分の意識などとは、〈微分自分〉の移ろいであって、断面の流れでしかない。この映画画面一コマと、映画フィルム一巻との関係だ。
言い換えると、もし一体のデータ記録として物質化されたとすると、自分のすべてがそこに入っているとして、安心、満足できるのだろうか。
これって結局、生きた証として扱われる、銅像だの文書集だのといった次元のことなのか。あるいは、誰かの中の記憶でしかないものとなるとか。
情報を時間で積分したら、何、、、 速度のそれなら、距離となるが。
第30日(2023年2月20日〈月〉)
それとも、この全データを再読し、自分の記憶を再起させてゆく、自己再生。
第31日(2023年2月21日〈火〉)