秋、到来

ポン転 第121日(2023年5月24日〈水〉)

[ポ車/メタオペ]運動の効果として、よく眠れる理由だが、確かに肉体的疲労が眠気をもたらす。それ以外に、ことに前立腺肥大者の頻尿問題との絡みであるが、前に、頻繁な尿意によって目が覚まされることが減るとの体験を書いた。それに関連して、先の日曜、友人たちとの食事会があり、よく飲み食いしたのだが、その夜、二つの問題を感じた。

一つは、この頻尿のことで、水分の取りすぎのため、夜、ほぼ2時間ごとに尿意で目が覚めた。ただ、たまっているはずの尿はたいした量ではない。満タンの三分の一くらいの感じ。だから、三度目の明け方のはわざと我慢してやりすごしたほど。

二つは、酔い後引きで、ほぼ覚めていながら、鬱気分が次の日にも残り続けて、何かと否定的に考えてしまうこと。そして、次の運動をするまで、それに支配されること。

以上を合わせて考えるのだが、確かに、運動した日の夜は、水分補給が足らないと、頭痛がして、それを教えてくれる。その頭痛が消える程度に水分をとった夜は、この頻尿問題は起こらず、6時間くらいの連続睡眠はできる。

つまり、運動による多汗作用は、睡眠中の尿を減らしてくれるだけでなく、それによる毒分の排泄で、抑鬱症状を除去してくれる。

思うに、眠れない恐れから眠ろうとして酒を飲む場合、それは逆効果なのではないか。尿を増やすし、どうもアルコールを分解後の物質の混ざった尿というのは、尿意感を強めるのではないか。それが毒だけに、体がより早く対外に排出しようとして。

 

 

ポン転 第123日(2023年5月26日〈金〉)

[ポ車/メタオペ]昨日は、たぶんプールで感染したのだろう風邪に対し、荒治療を試みた。熱はないのだが、喉をやられ、痰がからんで、粘っこい咳がでる。そこで、大汗をかいて解毒しようと、はじりに挑戦。ところがだ。いざはじり始めると、呼吸が十分できず、ほとんど窒息しそう。喉を痰がブロックしていて、ゼーゼーと音を出す。欲しい息が吸えない。おかげで、はじりどころでなく、歩きに切り替え、6キロを歩く。

窒息しそうな息は、吐く息をつよめると、吸う息も強まり、喘ぎあえぎなが、なんとか歩き通せた。

この荒治療の結果は、まずは、疲れ果てて、シャワー後、しばらく寝込んでしまった。一晩眠った後、劇的効果とは言えないが、峠はこえた感じで、痰や咳もおさまってきている。まだ、呼吸の度に、胸の中で、ヒーヒーとの音はしているのだが。

 

ポン転 第126日(2023年5月29日〈月〉)

[ポ車/メタオペ]結局、健康を追求するには何をすればよいのか。運動、然り。でも運動にもいろいろある。運動の何が必須なのか。

福岡伸一の「動的平衡」論によれば、細胞の破壊と再生を促進させることがそれだ。つまり、動的状態の邪魔をしないこと。

例えば、私ほど、薬を飲んでいない人は少ない。この年齢にして、いまだに、頼らねばならない常用薬はない。自力のままで、健康レベルは維持できている。だが、薬は その身体内のバランスを乱させる。乱れたからといって、また次の薬を服用する。もう、元には戻らない。

 

ポン転 第129日(2023年6月1日〈木〉)

[ポ車/メタオペ]最近、自分ができないことを異常とは考えず、むしろそれが正常と考えるようになってきた。たとえば、パートナーとセックスしなくなってもうしばらくだが、それもなにやら、そんな狂おしい自分が去っていって、どこかほっと安堵しているようなところがある。自分の中にプログラムされていたその即座に点火されて衝動する自分が、得られなければかんしゃくを爆発させたりもして、考えてみれば、それこそ思春期から、物色期、結婚期、相手を得てのルーチンな発散期等々、そうした、根底からのほとんど他力的で暴力的な働きとは、言ってみれば、種が絶えないための(こう言ってしまうのは、既存の性慣習に囚われた従順的発想だろう)埋め込まれた保険機能だった。

暑かった夏の季節が去った今、もうどんな意味でもその責務や犯意は果たせぬ自分となって、この秋の到来を、愛でるにふさわしくなってきている。

健康あっての、幸運かつ他に代えられぬ体験の時期が訪れてきている。

 

 

 

 

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