【理論編】
私がどうして、単なる「運動」を「ホーリスティック・エクササイズ」と大仰に呼ぶ理由は、それが自分の健康状態をその根底から左右し、それがさらに、自分の人生の質すらを決定するからです。単なる、趣味や好き嫌い程度の問題ではありません。
ただ、それほどに肝要なことが、若いころなら、それこそ身体に無理がきく余裕があったため、取返しのつかない問題となる前に、なんとか恰好がつけられるのが通常です。
ところが、年齢を重ねるに連れてしだいに、自分の身体の容量が日常行為を維持するのにギリギリまで減ってきます。そしてそれが「ある線」にまで近づくと、その余裕のなさが身体の弾力のなさとなり、身体的な健康状態ばかりでなく、その人の人格の容量にまでおよんでくるようになるのです。
ただその「ある線」が、年齢やら財布の中身のように、だれの目にもはっきりと判るものなら、それはあえて言うほどのことではないのです。ですが、その線の到来がなかなか気付かれにくく、いつのまにやらもう目の前にやってきていて、あるいはなにかの拍子に急に出現したりもして、ともあれ、気付いた時には緊急の事態に、さらにはもう手遅れとなってさえいる場合が意外に多いのです。
それこそ、「失って初めて解る大事さ」なのです。
【実行編】
2023年6月7日〈水〉
毎度のことなのだが、「はじり」をスタートして最初の1キロ半ほど、体の動きがどうしようもなく悪く、いまにも止めたくなってくる。足はだるく、体は重く、腰に痛みがあるし、息も切れ切れだ。今日もそうで、まるでガタガタ、どこかに悪い箇所があって、そのせいなのかとすら思え、途中切り上げもありか、などとも考えながらだった。
それでも、いつものように、我慢しながら持続していると、気が付くと、いつのまにやらそんなことも忘れて、なんとか調子が戻っている。
エクササイズの毎度なんて、こんなことが常時で、それの繰り返しなのだ。
それでも4キロの折り返し点につくと、タイムは34分ちょうど。これなら悪くないと気を取り戻し、ならば6分切りだとペースをあげる。だがそのためには、2分も縮めなければならない。今の自分には、そうとうのハイペースが必要、、、
最後のあと1キロほどで、やはりスタミナ切れでペースが落ち、目標はあやしくなった。それでもなんとか頑張り、結果は、1時間6分21秒。
そうして、夕日をあびながらクールダウンを終え、公園から家に戻るまでのこと。ほんの1時間半ほど前の、家を出た際のあのぎこちなかった歩きが、昔のようなスムーズな歩きに戻っている。運動のおかげだ。体中に注油されたかのごとく、動きが実に円滑で、リズミカルだ。気分も実に晴ればれとなっている。これなのだ。
もし、運動しないで、行きの際のような状態が常時続くとしたら、もうフレイル同然だ。買い物に行くことすらおっくうとなるだろう。考えるだけでもゾッとする。
毎日の運動をするかしないか、たったそれだけの違いで、まるで天地を分ける差が生まれる。
私にとっての一日のうちのこのわずか1時間少々。それがまるで計り知れない価値を生んでいる。
2023年6月21日〈水〉
今、ベトナム旅行中です。
昨日、ホーチミンシティにつきました。
今回、当地で、暑さの中を旅していて感じていることは、汗まみれのため、一日に二回もシャツを着替えるほどの毎日なのですが、予想していた以上に、自分の暑さ耐力のあることにうれしい驚きを見出しています。おそらく、普段の運動による汗かきのおかげでしょう。
そして同時に印象付けられたことが、ベトナムの人たちが、もちろん慣れとはいえ、そんな暑さの中でも、汗もかかずに平気で過ごしていることです。
自分も昔、クーラーなどなかった頃、そうしたベトナムの人たちと同じように、日本の夏を過ごしていた子供時代を思い出しています。そしてなにやら、勝手な共通感をみつけて、この旅の味わいとしています。
ともあれ、運動によるこの幅広い気温対応能力のおかげで、このベトナム旅行を、十分に「偶然のゲーム」を楽しめる、「足を地につけた旅」にしてくれています。