《非科学的な科学》

2023年9月8日〈金〉

早くも、77歳と19日。

何やら、この喜寿の間に、新たに違ったことが起こりそうな予感がするのだが、いまのところ、それが何かは、立ち上がってきていない。

今朝、ふと頭をかすめたアイデアが、健康とは結局、自分の気付き、つまり自覚次第の産物であるということ。薬を飲もうが、手術を受けようが、自覚を伴っていなければ、いつかは元の木阿弥へと舞い戻る。逆に、臆病になってはいけないが、正確な自覚さえ伴っていれば、早めの手は打てるし、医療過誤で攪拌されないですむ。《健康は自覚の産物》。

 

日課でやっていることに、朝、起床時、腹筋の筋トレとして、伸ばした足の上げ下ろしがある。だが、腹筋トレは、やり過ぎると腰を痛める。その経験もある。だから、いつも60回少々にとどめている。それ以上は危ない。そうした腹筋トレ中、気付いたことがある。それは、腰への負担回避策として、その足上げと同時に、肛門をギュッと締めると、不思議だが、腰への無理な負担が起こらない。またその外でも、以前に書いたが、泳ぎの際、足がツリそうになった時、泳ぎながらこの肛門締めをやると、これも不思議にツリが起こらない。ともあれ、肛門筋とは、体の中心で、微妙な役目を果しているようだ。また、F1レーサーは、コックピットに座って、肛門で操縦を感じ取っているとの話を聞いたことがある。

肛門話のついでだが、もう20年ほどにもなるか、以前、脱肛の手術をしたことがある。それが近年、まだ、戻り始めている。だが、もうその手術はしないつもりである。というのは、この脱肛というのは、自分の感覚として、肛門回りの筋肉の衰えを原因としているように思えるからだ(それに、とび出してきているのだから、切り取ってしまえという発想は、今ではもう納得できない)。それに、たとえば走るの際でも、肛門をゆるめて走っていると、脱肛するのと同時に、走る姿勢も悪くなっている。逆に、肛門を締め、丹田と呼ばれるへそ下の身体の中心に意識をあつめていると、脱肛もしないばかりか、走る調子も上がる。また普段でも、日々、歩く際も、肛門締めを意識している。ただ、つい忘れがちなのだが。

 

2023年9月9日〈土〉

はじっていて、いつも思うのだが、同じコンディションの日は二つとない。もう何百回とはじっているが、いつもどこかが違う。それが今日は、超特異なパターンだった。

天気は最高で、いいはじりができそうと思って始めたが、どこかが重くて調子が上がらず、期待はずれである。

気を取り直して、早いペースのリズム作りに集中していると、ペースは上がってきているのに、呼吸が苦しくなくならない。だんだん、いけそうな気分となってきて調子を維持し、折り返し点へ。32分55秒。追い風とはいえ、これは悪くない。

いつもなら、帰路は時には往路のタイムを1分以上縮めることがある。だがたいてい、帰路の後半ではエネルギー切れをおこすし、今日の帰路は向い風。だが、記録を狙って頑張る。すると結果は、1時間4分12秒。これは驚き。1分半以上の短縮。ついさきごろまで、6分の壁だといっていたのがうそのよう。二重の予想外である。

7月9日の1時間4分23秒以来ちょうど2か月ぶりの4分台。しかも、もっと調べてみると、この4分12秒というのは、2022年12月10日の4分4秒以来の記録。

それにしても、コンディションに変動はあるとはいえ、これほどの上下幅は何なのだろう。9か月前のレベルの再来だ。しかも、キロ当たりに直すと8分1.5秒で、キロ8分の「はじり」と「走り」の境に、ほとんど到達。

 

2023年9月12日〈火〉

今日は、土曜とは逆の結果。まったく、同じ体のどこがちがうのか。感じでは、そう悪くない調子だったと思うのだが、結果は再び、6分の壁のこっち側。1時間6分7秒。気分の上では、4分台の後半ぐらいは行ってもいい感じだった。それがこの結果。ゴールして時計を見た瞬間、ウソだろうと思ったほど。まあ、一度や二度の経験ではないのだが。

 

2023年9月13日〈水〉

この、運動と健康についてだが、それについての考え方が、どうもスッキリこない。

というのは、ことに健康について、それは、「健康を失う」との言葉があるように、従来、何か、もともとあるはずのもので、それが失われて行く、そんなものと考えられてきている。それはまた、ことわざ「いつまでもあると思うな親と金」と同じ「いつまでもあると思うな健康」の発想に立つ。それは違うのではないか、と思うからだ。

どうもこの「親と金」は、封建主義と資本主義が合体した近世規範臭く、「神概念」と相関している。言い換えれば、「絶対真理」の存在を前提にした発想。さらに言えば、絶対者の存在を必要とする者の発想である。

だが、私が日々を生きてきて得た実感は、元々なくて当然だった物から私が作ってきたその産物との感が強い。少なくとも、ちょっとづつながら育ってきたものへの働きかけだ。元々あるものではない。それは、生命の自己生産的な働きそのものである。だから、金があるからといって健康にも恵まれるのではないように、生きているからといって健康が当然に伴っているわけではない。健康という状態は、自分で自分に与えてゆくものだ。

そういう意味で、運動という積極的な自らへの働きかけは、健康づくりの一歩一歩なのだ。

 

2023年9月16日〈土〉

今日は最高気温が31度となって、いきなりの夏。そんな暑さの中、やめておこうかなとの気持ちもあったが、それもこれも実験だと、ともあれ始めた。開始すると、意外にはじれたが、やはり折り返してからは調子をなくして、ようやく7分台でおわった。

途中で、道端の水飲み場でのどを潤したが、終わって家にもどっても、体の脱水状態はひどく、コップに何杯もの水を飲んだ。案の定、夕食後、例の強い眠気がやってきて何も手につかず、しばらくの睡眠をとる。

 

2023年9月17日〈日〉

2時間くらいは眠ったか、目覚めていろいろ思考を巡らせた後、今、日がかわって、この文章に向かっている。

昨日、上記の「実験」の思いの中で考えていたことだが、運動に向かう自分を、仕事に向かう自分と言い聞かせる態度がどこか卑屈で、運動に向かうチャレンジ感自体はそんなものではない感じがしていた。そして、そもそも「仕事」といった発想自体を捨てて、今の運動に向かうことそのものを自然な在り方と考えてはどうなのか。

つまり、長年親しんだ、賃労働をしか「仕事」と思えぬ発想を改め、現在の自分の身体や精神が求める運動を仕事として、むしろこの無賃の運動をこそ仕事と考える発想への切り替えである。

そこでひらめいてきた発想だが、「科学と非科学」をめぐる考え――これは従来の科学的思考法に基づく――自体を「非科学的」とする考え。言い換えれば、《非科学的な科学》。(以降は、『フィラース』の「生命情報」「第1章」を参照)

つまり、運動というお金を意図としない労働すませ、生理を満たし、休養した後のこの今こそ、創造への条件が整っているのだ。

 

2023年9月19日〈火〉

この年齢になって、迫る気配の認知症の自覚をもたない人はいないだろう。そこで医薬品界では、新薬の開発にしのぎを削っている。当たれば膨大な利益の転がり込む話であって、その没頭も理由はある。しかし、その当事者として感じることは、それはどこか見当が外れている。そもそも、認知症を、どこかの臓器や脳内物質の異常にあるという要素還元主義に基づく発想自体が、的外れなのだ。

想うに、認知症とは、機能の異変であって、脳の情報処理がくるいだしている症状だ。しかもその脳は、身体というインフラに支えられての臓器であることだ。

そこで、脳内のみならず、脳と身体全体の、相互に影響し合う情報ネットワークの働きの維持との発想が欠かせないはず。

これは自己実験に基づく体験的認識だが、使わない機械がさび付くという、そうしたたとえが、もっとも適した認識だと思う。

つまり、認知症予防とは、薬ではなく、運動、それも、エクササイズという狭い意味のそれだけでなく、日常活動もふくめた広い意味でのそれの重要性である。

要するに、使えば使うほど、脳も身体も、衰えないのだ。

そもそも、歳というただの数字でしかない〈老いという幻〉を現実と考えるところに誤りがある。

 

2023年9月20日〈水〉

最高気温34度の暑さの中を、プールへ。いまは隣の区のプールまで遠征しているため、往復6キロの自転車乗り付き。つまりバイアスロン。このところの暑さのため、泳ぎが主になっていて、タイムもだんだん縮まってきている。千メートル26分を切るのももう少し。ただ、暑い日はプールも混んで、ペースが乱されるのが難。

この自転車乗り、以前に書いたが、行きの坂道がたいへんで、長さ約900m、しだいに急になる勾配は、おそらく最大5%くらいにはなるだろう。それだけの付加を体に課すと、確かに、いい鍛錬にはなる。しだいに筋力が強くなっているのを感じる。近くのプールの建て替え工事のおかげで、予期せぬ効用を得ている。当初は、続かないだろうと思ったのだったが。いわゆる、やればできる、ということだ。

 

2023年9月21日〈木〉

昨夜半、前線が通過して、今日は昨日と打って変わって、風が冷たいほど。5日ぶりにはじり。

日曜のシドニーマラソンが終り、いつものランニングコースから、にわか仕込みのランナーの姿が消えた。いつもの静けさのもどったコースだが、風が強い。

 

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