「氣」の点火をあやつる術

2023年12月10日〈日〉

きわめて蒸し暑い中、8キロはじり。往路が34分20秒、合計タイムは1時間7分38秒。帰路で1分縮めたことになる。

ゴール後、クールダウンをしていて気づいたことだが、運動後の爽快感には、大汗をかき、血流をフルにし、激しい呼吸を続けてきた、解毒効果によることも関係しているのではないか。つまり運動による体内環境の浄化である。

ひと仕事を終え、満足感が得られるのも、単なる心理的効果ばかりでなく、身体の内部から湧き上がってくる浄化によるいい感じが、それを起こしている。

 

2023年12月13日〈水〉

なにやら、「健康」の考え方を変える必要が出てきている感じがある。

というのは、登山で頂上を目指すように、見上げれば、雲間の先にも確かに見えていたその目標が、どうやらそれほど単純なことではなさそうなのだ。

それを、極端な言い方をすれば、あえて病んでいることすら、目標になれるということなのだ。あるいは、金銭の〈金持ち〉のように、心身の〈健康持ち〉になったとして、それがゴールなのかということ。そうして長寿を得たとして、だからどうなのだ。

つまりはどうやら、事実上の、健康追求の登頂はほぼ成し遂げたらしいということ。

ゆえに、戦略の練り直し。

これはなかなか面倒な話となってきた。

これが、「海図なき航海」ということか。

 

2023年12月15日〈金〉

蒸し暑い中、8キロはじり。往路が34分05秒、合計タイムは1時間7分27秒。5日前とほとんど同じ。

ゴール後の爽快感も同じだったのだが、今日、ふと、頭をかすめたことは、その解毒作用には、脳内のそれもあるのではないか、ということ。つまり、ある種の洗脳、あるいは思考法の置き換わり。それはどうも、鬱めいた“毒考”を消去してくれているようなのだ。

 

8年前の「エクササイズ・ログ」をたまたま見ていて、愕然とさせられた。

というのは、なんと、当時の10キロはじりのタイムが、今の8キロとほとんど変わらない1時間7~10分。そして、体重が今より、ほぼ5キロ軽い。

そこで、この体重増の時期を追跡してみると、その年の5月に引っ越しをしているのだが、それをきっかけに、増えている。この引っ越しで変わったのが、4階のアパートから、平屋への移動。それまで、毎日、4階までの階段を上がり降りしていた。その外、大したフィジカルな変化はないはず。つまり、それだけの違いで、体重が5キロ増となったということ。いまごろになって、それに気付かされた。

 

2023年12月17日〈日〉

この二、三日ほど、私の気分は、今日の空のようにドンヨリと曇って、意欲が低迷している。

だから今日も夕方、そうした鬱気分への薬物服用のごとく、エクササイズに出た。だが、暑さもあるのか、まったく調子が出ないどころか体がだるく重い。クスリが効いてこない。やむなく、いつもの半分の2キロで折り返し、ともあれ義務的に終わらせた。むろん、いつもの高揚感には至らず、なんとか完走しえたことでよしとする。

 

以上は午後の後半。その前の早い午後は市内へ出かけ、紀伊国屋書店で、吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」を購入(輸入書のため定価の二倍半ほどの値段)した。

 

2023年12月18日〈月〉

今日も、暑さは昨日と同じほどだが、鬱気分対策のはじりをやった。ところが、ちょっとした気分の違いがあって、今日は、昨日ほどのはじり依存ではなく、けっこうコントロールした感じだった。そのせいか、あるいは、ペースは気にせずリラックスしていたせいか、調子に乗るほどではないものの、まずまずのはじり具合となった。そこで、無理はしないが、3キロまで距離を伸ばして折り返して、はじりを終えた。タイムは51分55秒と、超スローペース。

ともあれ、昨日と今日とでは、暑さも自分の体調もほぼ同じ――むしろ二日連続という意味では今日のほうが負担増――である。なのに、この違いはなぜ?

そのクールダウンの時だった。ふと頭をかすめた考えがあった。それは、「運動に、薬物依存のごとくに頼ってはいけない」というものだった。つまり、鬱気分がとれたのは運動したからのものではない。そうではなく、むしろ、体に現れる無運動と気分に現れる鬱とは同じ状態の両面なのではないかとするもの。

だから、この「同じ状態」とは、一種のエネルギーとか意欲の状態といったもので、東洋医学で「氣」と称されるものではないか。つまり、問題は、その「氣」のあるなしなのだ。「氣」があれば、運動もし、鬱にもならない、ということ。

だからまさしく、昨日の運動はその「氣なし」状態でのもので、今日の運動が「氣あり」状態のものである。

言うならば、昨日の場合、薬剤依存の態度と同じだけに、体の運動体系のスイッチはoffなのに、無理に動かせとの誤指令が出されている状態だ。これなら、体がスムーズに動くわけはない。

ところが今日の場合、その「氣」が入っていた。

この違いは、どこからくるのだろうか。言葉で言えば、「氣」の有無による。

《「氣」の点火をあやつる術》はあるのだろうか。

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