3月9日〈土〉
私の右足の指の付け根に痛みがあるという症状について、もう、長くそれを考えてきた。当初は、サイトのスポーツ医学上の助言で、疲労骨折の恐れがあるということで、ともあれ休養が必要とされた。
その後、すねの筋の凝りによる影響を想定して、丹念に凝りをほぐすマッサージを続け、強い痛みが消えることを発見した。
その後、キーンと走る痛みはなくなったが、鈍痛のような感覚が続いてきている。運動に差し当たっての障害都はならないのだが、負荷をかけると、痛みを感じる。
そんな、慢性化したような鈍い痛みを、これもこの年齢の体の不可避な状態かと、ある意味で放置してきた。
だが、どうもそれだけではない感じもあり、すね筋に弾力が戻ってくると、その奥にある細い筋での凝りを触知できるようになった。
すると、すねだけでなく、足の各指につらなる筋にも、同じような凝りや、そこにさわると、痛みが走ることが判ってきた。
そこで、ことに残る痛みの箇所がわずかに腫れていることもあり、なにかそこにうっ血があるのではないかと、指と指の間の狭い部分に、手の小指の先(他の太い指では入れない)でそうした部分を丹念にもみほぐしてみた。
その結果なのだが、その腫れもとれると共に、力を入れても痛みが走らなくなってきている。
まだ、この先、様子を見る必要はあるが、こうした新展開が見られていている。
もしこれが、正しい発見と対処だとすると、高齢運動者にとっての運動は、十分なメンテが必要であり、それが不足すると、疲労状態がしだいに蓄積し、私の経験したような症状となってゆくと考えられる。
想い起すと、その開始は、二十年ほど前にもなるだろうか。足の裏の感覚に異様感が始まったことだ。その始めは、足の親指の感覚に指の半分側だけ、しびれる感じがはじまったことがある。そしてやがて、足の裏全体の感覚が普通でなくなってきて、何かを踏んでいるような感覚が、もう、今になるまで続いている。
今回、足の細い筋の各所をいろいろもんでいて、すねやら土踏まずなどに、その親指の半々に分かれる感触に通じる刺激を感じる部分をみつけている。そしてそこをゆっくりともみほぐしているのだが、はたして、もとの足の裏のまともな感覚が回復してくるものかどうか。
3月10日〈日〉
昨日は、その足で8キロを試してみた。30度を越える気温の中、これまでだったらとても無理だったろうが、1時間6分21秒のタイムで完走できた。
そこで発見したものは、確かに足が軽く、いつもなら2キロ近くほど慣らし走りをしないと体のリズムが出来てこないものが、昨日は、もう、走りだしてすぐから、調和がとれた。実にいい感じだった。ただ、そうしてこれまでの右足先の無感覚な状態がなくなった分、いわゆる過負担症状である、中指の第二関節部のあたりの特定の痛みが浮かび上がってきた。つまり、これまでの症状には、二つの問題から来ていたらしい。
この過負荷症状は、足の蹴りの際の重心を親指側にずらすことで、いなすことはできる。同じことは、以前、この症状が出始めた頃、そうやっていたことを思いだす。
ということは、過負荷問題がやはり存在していての、二重の症状を作っていたということとなる。
さて、ならばどうするか。しばらくは、自転車一本か。
3月12日〈火〉
14日の引っ越しを目前にして、しかも、暑いさ中、作業に追われている。
年寄り二人(77と66)しての引っ越しだけに、双方への負担は確かに軽くない。もしこれが上々に終了したなら、これは相当に高いパフォーマンスと言えそうだ。
それと、上記の足のメンテだが、丁度この引っ越し作業で、いつもの運動をしている時間がない。そのため、過負担部の休養の効果はでているようだ。
3月13日〈水〉
引っ越し作業に追われフィジカルな運動ができない。その分、一種の鬱っぽい気分に流れがちとなる。
だが、そこでなんとか踏ん張って、メンタルな運動に繰り出す。
面白いことに、出だしの腰の重さは同じだ。やり出しがおっくうなのだ。しかし、やりはじめると、しだいに調子がでる。そんな経過は同じなのだ。
つまり、メンタルな運動も「仕事」と受け止めるルーチン化。要するに、そのように日常に織り込むこと。
確かに、この「仕事化」は、昔の「仕事化」とどこが違うのか、それが問題だ。
その違い、それは、年齢を理由とする流されに「さおさす」こと。そういう日頃の気力ある姿勢。でないと、〈メンタルな筋肉〉まで細ってしまう。
フィジカル、メンタル、両方の筋肉の維持。どちらも、使わないとダメ。メンタルな筋トレの必要。
逆に、フィジカルな運動がメンタルな向上効果をもたらすだけに、それしかないとする依存習慣という面があったが、それへのオルタナティブとして、メンタル運動によるメンタル効果という逆対応。
だが、具体的に、メンタルなエクササイズって、何がある?
メンタルな負荷を課すこと。メンタルなバーベル。メンタルな走り。やりたくないことへの挑戦。つまり、メンタル運動はメンタルに働くという二重効果。
ならば、ここに作用している脳内神経伝達物質って何。たとえば、メンタルなセロトニンってあるのか?
これって、〈メタ量〉を左右させるもの? たとえば、〈メタ量促進情報〉? 物質ではなく。
Love?
3月16日〈土〉
14日の引っ越し当時は、いわば折り返し点。これまでは荷造りの往路だったが、いまや復路の荷ほどきの作業に移っている。それに、当地での定住のため、ほぼ30年前にそろえた家具類の多くが組み立て式で、その後の4度、今回で5度目となるが、その度に、解体と組み立てを繰り返してきた。この作業が実に労力を要し、重量物でもあって、身体にはこたえる。まあ、嫌いな作業ではないのだが、やはり、若い時代とは違っている。
そういう次第で、いわゆる運動は、こうした作業にとってかわれれているのだが、この運動は、ストレス癒しにはほとんど役立たない。それに、変わった生活環境で、それへの慣れもこれから。
おちついてメタ作業に入れるには、当分、時間を要する。
3月20日〈水〉
引っ越しに伴う限りない作業のため、運動は9日の8キロ以来、停止している。その代わり、引っ越し作業関係の力仕事や片づけ仕事は、ほとんど全日、それについやされている。
そこで気付いたことなのだが、いわゆる運動をしていないためか、尿の細りが進行している感じがある。波はあるのだが、排尿の勢いが、一層弱まっている。運動をすると飲む水分の量も増え、その分、尿の量も多くなる。その関係があるのかも知れない。
3月21日〈木〉
もう、私は何回、引っ越ししてきただろうか。シドニーだけで、今回で5度目だ。そうしたあまたの引っ越しの中で、今回初めて、これまでの自分の引っ越しって、紙時代のものだったと実感した。というのは、私個人の荷物の中で、本にしろ書類にしろ、そしてそれが故の本棚とかキャビネットとかの家具にしろ、紙がゆえの荷物がほとんどなのだ。
これが、もし私が30年若かったとしたら、その荷物の相当の部分は、電子器具に置き換え可能で、その引っ越しとてたかが知れている。だからこそのリモート勤務なのだ。そもそも、引っ越しといった必要さえ生じない。
こうして、情報がハードプリントとしてでなく、デジタル器具やサービスとして記録されてきているのだが、この二、三か月のうちに、その情報化、ことにAI化の波をもろにかぶっている自分を体験した。この体験については、次回のログ記録分析の記事で述べたい。
紙情報にべったり漬かった昭和人間として、今回の引っ越しは、ダウンサイジングとの必要ともからんで、その紙からデジタルへの引っ越しである面も体験することとなった。
またそれに絡んで、寝具や食器など、昭和だろうが平成だろうが、人間なら欠かせない荷物の存在――これは断捨離できない――に改めて気付かされた。
ところで、これらの中間にあるのが衣類で、人にもよるだろうが、この部分は、おおいに断捨離の対象になりえ、過去の服のかなりの量を慈善団体に寄付した。