「包摂と排除」を越えて

カミングアウトする日本そしてアジア

「日本エソテリック論」その4

前回の「日本エソテリック論」;「原爆はなぜ日本だけに落されたか」の結論は、「今後、西洋文明に代わりうる文明」としての東洋文明という指摘でした。そこで、もしそうであるならば、では、世界が東洋化すればそれで済むのか、ということです。つまり、世界規範としての東洋の浮上、ということとなります。

しかし、本稿が述べたいのは、そういう「西洋か東洋か」との二者択一な、これまた還元論的発想の結論としての東洋ということではありません。そういう話なら、それは還元先が西洋から東洋に置き換わっただけのことで、(「中国世界モデル論」のように)いずれ同様なあい路に入り込む、もとの木阿弥となるのでしょう。

すなわち、現代の混沌極める世界において、そこからの脱出にあたって肝心なのは、東洋に特徴的に見られる非還元論的ホーリスティック発想をヒントとした、新たな発展ビジョンの創造です。

むろん、それがどういうものであるのか、それを正確に表現できるものを、まだ人類は持っていないはずです。だからこその、今日のこのまがまがしい混迷状態です。

そうした混迷の原因を探るこれまでの考察からは、確かに、方向として東洋的なものの取り上げが必要であるだろうとの見当はつけられました。

しかし、そういう方向が重要だとしても、それがただ、言論上のモード転換として示されればそれで済むものではないでしょう。そこには、個々人がもつ思いや態度の中に、それを変え、そうした転換が現実に結び付きうる新たな支えがあってはじめて、それの広範な共有によるボトムアップな流れが生まれてくるものと思われます。

 

「性的独自性者」の視点を借りて

そこでですが、これは多分に個人的体験を発端とする視点ですが、これまでの東西のエソテリック論の手法の動機と着眼は生かしながら、他方、まったく思わぬ分野に発する新たな方向の息吹を感じつつあるのが「LGBTQ+ 発想」です。

ただ、こう略語列記で表わされてもなかなかピンとは来にくいもので、不正確さはさておき、判りやすさを優先して「性的独自性者」の視点と言い換えます(「性的弱者」という言葉もありますがそれはあえて避けます)

要するに、「性的独自性者」が体験せざるを得ない、この世界のどこにでも、様々な形で存在する実にデリケートな問題の存在に着目することをもって、そこに凝縮されている今日の問題の核心を探る手法にしようとの目算です。

 

では初めにイントロとして、この「性的独自性者」とは、いったい何を問題としている視点なのかについて触れておきます。

そこでまず、「包摂と排除」という、もっとも日常的な“しがらみ”の定番を取り上げます。

これは、私たちは、個人でありながら集団の一員としてしか生きてゆけない、その生存のための鉄則がもたらす二面の働きをそう煮詰めたものです。

この「包摂と排除」は、「帰属と差別」とも言い換えられますが、たとえば、私たちが学校を卒業して、いよいよ独り立ちして生きて行こうとする時、通常、就職というある集団へ属し、その結果、自分を枠はめる“掟”に従ってゆく経験をさせられます。(この節では、学校それ自体、あるいは誕生そのものからして、その「枠はめ」の始まりとなっているケースもあるようです。)

ことに、この「個人と企業」あるいは「労働者と使用者」がなす場において、近年、とくに焦点となっているのが、その男中心社会と性差別の問題です。

そこで例えば、ある女性が、その自活を維持するため、その男中心社会に取り込まれて「包摂」され「帰属」すると同時に、そこで体験させられる「排除」や「差別」に目をつぶる環境に身を置いてゆくこと、そして、それへの妥協/拒絶問題があります。

さらにここには、男女差別がすでに社会制度化されている「ジェンダー差別」の問題が加わり、事態をいっそう根深くしてゆきます。

私たちは、こうした織り重なる性差別の充満する社会に生きているわけです。そこでそれぞれが、ことに男が自らの特権的立場を自覚してゆく訓練として、あえて女の視点を自分の視界に入れてゆく、さらには、それとは気付かず抑圧していた自らの女的部分に気付いてゆく方法を、私は「フェミニン化」と呼んでいます。

このようにして、自分が単に、男と女という黒白明瞭な二つの性別のどちらかに、典型的に属しているのではないかも知れないことを、浮かび上がらせようとするものです。

いうなれば、性別とは、男女という両極をもった連続変化するスペクトルで、極言すれば、人の頭数だけの性別があるとさえ言える事実です。

そこで、私たちが立ち返るべき原則的視点として、この「性的独自性者」の目が有効に働くのではないかと考えるわけです。

 

「性的/個的独自性者」の視点

さて、以上のように提示される、ひとつの知的道具としての「性的独自性者」の視点を、私自身の物心ついてからの体験に当てはめてみた場合、生物学的な性問題としては多数派意識に違和は感じてきておらず、それよりむしろ、一人の個としての「個的独自性者」視点――典型的には劣等意識――をずっと引きずってきました。

そうした体験より、この「性的/個的独自性者」の視点をより一般的な基準にすえてみます。

そこで、その基準を、「日本エソテリック論」を通じて発見してきた、国や文明間の「包摂と排除」や「帰属と差別」といった“しがらみ”とを結びつけてみます。するとそこに、相似的あるいはフラクタルな関係をなすように、大小規模は異なるものの、類似した相似形の問題を抱えていることに気付かされます。

そして、ことに前回に述べたように、西洋世界に、その文明自体なり、逆にその異端としての「エソテリック論」なり、いずれの立場に身を置くとしても、互いに互いを道連れにして迷い込んでいる、総体としての自縛状態を発見しました。つまり、その暗黙の総体的自縛状態――あるいは総自家中毒状態――が、今日を含む、これまでの世界の分断状況を生む決定的で歴史的な要因であった、との指摘でした。

ここに上記の「性的/個的独自性者」の視点を持ち込むことことで、ひとつの興味深い対比関係が見出されてきます。

つまり、片やに男中心社会と西洋文明を同列なものとして並置して、それをA群とします。それに対する側に、差別される女性たちと、存続してゆくために致し方ない鉄則を受け入れている非西洋文明をやはり同列なものとして並置して、それをB群とします。

ここに出来るA群とB群の関係には、上述のような「包摂と排除」や「帰属と差別」という働きが、両者を関係づける決定的な要素となっており、その地理的、歴史的な支配、被支配関係を作り出してきていることです。

すなわち、前回の「原爆はなぜ日本だけに落されたか」で述べられた、日本の持つ、宇宙的なセンスを含めてもの独自性の発現は、「包摂と排除」や「帰属と差別」をめぐる、こうした相似的あるいはフラクタルな関係中から独自性をカミングアウトする、ともに共通した「性的/個的独自性者」の視野表示であったわけです。

 

カミングアウトする日本

そこでですが、そういう日本を脱出し――言い換えれば、日本への帰属を拒み、逆に日本からは排除されて――、「両生歩き」を続けてきた私とは、「性的」なそれではなかったとしても、「個的独自性者」がやむなくたどる経路をたどってきたのは確かなようです。

そしてそこにあって、「両生歩き」と「フィラース」との二つのサイトを立ち上げ、それらを自己表明の道具としてきたのは、なにやら、「性的独自性者」が苦しみ抜いた末に、勇気を振り絞って本当の自分をカミングアウトすることにも似た、ともに世界に向かって自分の内心を告白する、そうした、人としての類似し重なり合う要請に従っているものと考えられることです。

つまり、「日本エソテリック論」があぶり出してきたものは、こうした個的レベルのカミングアウトに相並ぶような、地球レベルでの包摂や帰属に一線を引く、カミングアウトとしての東洋や日本文明の自己認識と言えます。

すなわち、相似的あるいはフラクタルなあり方の中で、いずれの規模の段階であろうと、人はそういうカミングアウトをもって、人間性を取り戻しうるということです。

 

やってみせてくれた独自性

そこで本稿の結びに、このほど生じた実にセンセーショナルな出来事を取り上げ、それを、そうした相似/フラクタルな関係における、東洋のひとつのローカルとしての日本の自己認識の見事な表出例として見たいと思います。

その出来事とは、先のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)での日本の優勝です。

その優勝は、たしかに、表面上の出来事としてはスポーツ界での話です。つまり、日本の野球が、その野球の発祥地であり今日でもその中心地であるばかりか、世界の野球選手が憧れる頂点のとしてのアメリカを下し、日本のチームがそのゲーム上の強さのみならず、感動的な品位をも伴って、世界の頂上に立ったというものです。

私はこの優勝を、野球界やスポーツ界にとどまらない、文明間の「包摂と排除」や「帰属と差別」の関係を塗り替えてゆく、ひとつのやり方を実際にやってみせ、その成功を成し遂げた実例であると見ます。だからこその「たかが野球、されど野球」(「日々両生」の3月23日記事参照)で、この達成は、今後の世界の変化へ向けての一ページであったのではないか、と大いに誇大解釈しても構わない事例と受け止めています。

それに加えて私は、このWBCの成果は、表面的にはいろいろな下り坂の目立つ日本について、現在、あまり目には付かない形で広がっている、ひとつの上向きの事例であって、他にもさまざまな分野で、そうした日本イメージの塗り替えの底流は始まっていると見ています。

それは、海外に出てそこに根を下ろして生きている日本人の増加があります。ことに、女性のその数は、外務省統計にもはっきりと表れているように、男を上回っていることです。そしてそれぞれの現地で伴侶を得、子供をこしらえて、そうした次世代の活躍がしだいに例を増やしていることです。つまり、すでにたくさんの種はまかれ、芽を出し始めているのです。

それがこうして、まず結果の見えやすいスポーツ界において明らかとなってきているのですが、今後、さらに他の分野においても、そうした頭角が現れてくるものと確信されます。

いうなれば、〈フェミニン化〉の頼もしさをまさに感じさせられるところです。日本もようやく、その島国との地理的制約を克服し、軍事力なぞでは決して果たせない、人的パワーを世界的に披露しはじめていると受け止めているところです。

 

【まとめ読み】

(その1)あり得るか「日本エソテリック論」

(その2)貴方の中にひそむ異星人痕跡

(その3)原爆はなぜ日本だけに落されたか

(その5)日本的伝統とは何であったのか

(その6)「局地」的で「非局地」的な日本

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