
この一月、雪におおわれた山を登りながら、自分がなぜ山に魅かれるのか、その疑問が解けるような思索発展のひらめきを体験した。
それは、当たり前と言えばその通りのことなのだが、どうも自分というものを、つい自意識を中心に考えてしまうことに原因しているようなのだ。つまり、それがまず、主観としてしか意識に登ってこないという、いわば〈意識の錯覚〉とでも呼べる、その出現にまつわる不可避の形があることを覚ったからだ。
もう少し噛み砕くと、まずここで言う〈意識の錯覚〉とは、主観が最初に意識に現れるがゆえに、その背後の形成過程を見落としてしまうことである。
そこで、どうして自分は山が好きなのかと言えば、自分は子供の頃から、近辺の丘だの山だのを歩きまわって成長してきたから、という育ちの体験がゆえのようなのだ。
言い換えれば、自分の成長の過程で、そうした「山」という地形の存在が、自分の心身の内に、それほどに根を下ろしてきたがゆえのことと言えそうなのだ。
そうなのに、「好き」という主観が先に立って、そうした過程を隠してしまいがちである。
たとえば、人には「努力」とか「達成」という気持ちや実際の日常的行為を、言わば自然なことと取り入れているところがある。さらにそれは、人生上に必須な行いの一つともされている。
そうした「努力・達成」という常識的な行いについて、それが、外からの強要としてでなく、自分の内にどのように芽生えてきたのかなのだ。
すると私の場合、どうやら子供のころより、山登りという、地球の重力に逆らって、自分の身体をより高いところへ運びあげて行くという行動に親しんできたことに思いあたる。そして、それに伴う身心上の苦しい実感や、やり遂げた後の目を見張る効果を、そのように身に付けてきたからであるようだ。
そこでこうした一連の運動より得た体験知を、自分の〈運動観〉と呼んでみる。
ある著名な登山家は、山に登る理由を問われ、「そこに山があるからだ」と答えた。
私の場合も、自分がどうして山が好きなのかと問われれば、「そこに山があるからだ」とでも答えそうな、人と環境との間に形成されてきた、〈成長過程関係〉がありそうである。
ところが、何はともあれ意識には、そうした自分の意識の形成過程の事情は抜きに、まず、その「好き」という思いが先に頭の中を占めてくる。そういう意識への登場上の順序があるがゆえ、どうしてもそれが主となって、意識が生まれてきた背景や事情というものに気付かないでいがちとなる。
そんな、逆転していた気付きが再逆転したところに、この〈運動観〉という用語の意義がある。
すなわちこの〈運動観〉を持つことは、自分自身の形成に、運動行為ということが、それほどに働いてきたということに、改めて関心を集中し直すということにもつながる。
これは、自分にとって、運動というものがそれほどにかけがえのないものであったということに目覚め、それに接し直すということでもある。
だからこそ、今回のように、真冬の雪山登りという、しかももう80歳になるそんな時に、常識からはトンデモナイとされることに、あえて挑んでみたくなった。
そして、そうする自分は、ともあれ“意識ファースト”式には自分がそれを選んでいるように思いがちではある。だが実は、それは自分をこしらえてきた過程を、そのように新たな環境をもってして確かめ直しているといえることだ。
ひっくり返して言えば、山に登らなくなってしまうと、自分の成長やひいては自分の自分たるものを、忘れてしまいがちなのだ。
それはあたかも、そこにそうある山にそのように呼び戻され、忘れかけていた何かを教え直されているといってもいいことなのだ。そしてその「何か」というものが、ここに述べている、自分と山との〈成長過程関係〉なのである。
これは、私の場合、それが山だったということであって、人にとってはそれが海であったり川であったり、あるいは、家業であったということもあるだろう。
つまりは、自分が成長するにあたって体験してきた、自分と周囲の環境との〈成長過程関係〉の足跡があるがゆえなのだ。
そんな想いが、いま『フィラース』に掲載中の「私風人間生命論」の基軸概念――「自己組織化」能力――に運動が密接に絡んでいる、そういう気づきに静かに結びついたのであった。