アメリカ社会の≪底なし感≫

憲法改正考(その24)

アメリカで、またしても市民が50人近くも銃で殺されました。どうやらそれは、いわゆる「テロ」であるようです。これで銃規制の議論はまたしても再燃していますが、その一方で、反テロが声高に叫ばれ、加えて、銃撃事件のたびに銃の売り上げが伸びているといいます。

「狂ったアメリカ」が再認識されるところですが、もう、とどまるところを知らぬ≪底なし感≫を否定できません。

 

話は飛びますが、一つの社会や国には、その現実として、敵や犯罪が皆無とならない限り、軍や警察が必要となります。そして、そういう敵を出し抜くために、さらに、スパイや諜報という外部には秘密の「闇の部隊」が設置されます。

日本でも、かつて、武士階級という正規部隊と忍者というスパイ部隊を持っていました。近代の軍部となってからも、むろんその二本立ての基本に変わりはありませんでした。

そういうアメリカも、二次大戦後直後までは、そうした軍部も「闇部隊」も、民主的な政府、つまり議会と大統領の一応のコントロール下にありました。それが、冷戦が始まりソ連という仇敵の存在が現実となると、覇権の維持のため、その「闇部隊」の存在の秘密性が強化され、CIAという議会や大統領の監視や許可さえ必要としない「怪物組織」を生み出しました。

そして、この「怪物組織」がまだ未発達のうちに、その牙を抜こうとしたのがケネディー大統領でした。しかしその牙は、抜かれる前に、その彼の方が暗殺されてしまいました。そしてその後のこの「怪物組織」の発達はとどまるところを知らず、近年の米国の戦争につぐ戦争――多くは“やらせ”の戦争――の歴史は、その明らかな産物です。

そこに、冒頭のテロの再発であり、底なしの狂気沙汰です。むろん「怪物組織」はそれも承知で、こうしたテロの応酬は、彼らの用語でいう「ブローバック」、すなわち、「作戦の跳ね返り」のひとつです。

どの国や歴史を見ても、軍部とこの闇部隊の共存は、当り前なセットです。日本も敗戦までは、れっきとしたそのセットを持っていました。それが敗戦をもって、日本はアメリカの支配下に置かれ、軍事組織は双方ともに解体され、一国が現実として備えるべきそのセットはアメリカに依存する属国体制に組み入れられました。

いわゆる平和憲法をめぐる、平和理想論と軍事的な米国への隷属化はその結果であり、その憲法の骨格である非武装論の矛盾――丸腰論――も、属国であることの反面の実態です。

 

そこでなのですが、そういう避けられぬ現実に現実的にどうあるべきか、そのヒントが日本の伝統にあります。

私はいわゆる≪武道≫に親しんだことがなく、日本人でありながら、剣道だの空手などといった、日本伝統のこうした「武装」世界の訓練体験がありません。こうした私の≪非武道性≫はおそらく、1946年生まれという典型的戦後世代の持つ、アメリカ占領政策の産物――武装解除政策の大衆版――のひとつだろうと思います。

そうではありますが、たとえば、ここオーストラリアに来て感心させられていることの一つに、オージーで、しかもなかなか知性ある――単なる“腕ずく”派ではない――人たちの中に、日本の武道の修養を積んだ人が少なくないことがあります。そういう彼らに接していると、そうした武闘技の習得以前に、西洋にはない日本文化の何がしかに魅されているようなものを感じます。また逆に、日本人でありながら武道の「ぶ」の字も知らぬ私自身に、何か不自然なものを感じさせられてきています。

あるいは、日本の相撲が「ウィンブルドン化」して外国人の活躍が目立つ時、そういう外国人、ことに自分の無敵を誇示する彼らに、その伝統のひとつである「敗者を尊ぶ」精神を解らせる難しさといった話を耳にします。

すなわち、敵のいない理想の社会はまだまだ未到来の現実があるどころか、ますますと“敵”が続出する今日の世界にあって、「勝者をたたえかつ敗者を尊ぶ」とか「武家と統制された忍者」といった両面をおさえた社会、あるいは、それらを一人の人間の両面として取り入れられる度量ある文化の在る無しは、今の世界を見渡した時に、実に貴重な、日本文化の遺産であるのではないかと思います。

むろん、それは日本のみに限られた遺産ではないでしょう。しかし、西洋的発想は、そうした相矛盾する両立性に耐えにくい素養であるかに思われます。

またしても目撃させられるアメリカ社会の「底なし感」を知るまでもなく、私のオージーの知人たちは、自分たちの属する西洋社会に、その到来を予感し、その対極を求めていたのかも知れません。

 

 

 

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