6年前の2013年9月、私は『天皇の陰謀』の私的訳読作業を終え、また、その解説版である「ダブルフィクションとしての天皇」の最終回に「『日本人であることの不快感』と、その解消」を書きました。そしてその中で、解説はそれに終わらず、さらに続けたいとも追記しました。
その後、ネット出版したその私的訳読版に接した読者の方々から、訳の誤りや分かりにくさなどの指摘を頂き、その都度、訂正を続けてきています。
お陰様でその私的訳読版は、翻訳としていっそう充実し、引き続き多くの読者の関心をいただいています。
そういう意味で私は、この私的訳読版は、個人によるプライベートな出版の域を越え、もはやひとつのパブリックドメイン〔公有財〕になりつつあるとの感を抱いています。
ところがその一方、その天皇制の現況、ことに今年の代替わりに関しては、現天皇自身すらが違和感を表すほどに、その慶祝行事が安倍政権の失政を隠す絶好の機会とされているかの企みがうかがえ、過去の「ダブルフィクション」にさらなる偽りを加える、「トリプルフィクション」とも言うべき状況が作り出されようとしています。
そこで、この「三重の虚構」とは何かを振り返ってみると、
第一は、明治政府の維新政策の切り札として近代天皇制が編み出され、天皇という超法規的存在を国の仕組みに取り入れ、国民を呪縛できる絶対服従の罠を仕掛けたこと。
第二は、その呪縛が結果した対米戦に敗れ、勝った米国は、そうした超法規的仕掛けを、廃止もせず、その主の戦争責任も問わないどころか、そのまま戦後の日本支配の恰好の枠組みとして再利用し、日本国民は、過去の呪縛に捕らわれたまま、今度は米国に屈する従属国の国民へとさらになり下がり、二重支配下にあえがされることになったこと(沖縄ではその実態が赤裸々に繰り広げられながら、「本土」はそれに目をつぶり、分身を食らうかの愚行を重ねてきている)。
そして第三に、その従属国の典型かつ最悪の政権たる安倍政府は、地に落ちた支持状況が故の延命を図るため、この天皇の代替わりを利用して、その超法規的仕掛け――憲法上、「象徴」として一応の法的歯止めが課され、かつ現天皇もその「象徴」の範囲内で同制度を温存しようとしてきた――を、是が非でも自らの権力構造下に取り込もうと画策していること。
こうした三重の《嘘の上塗り》を経て、三たび日本国民は、時の諸権力の意図のままに重ねて利用され、それこそ150年前の、相次ぐ戦争の振り出しでもあった明治の起点――超法規的罠の全面展開の開始点――へすら舞い戻されようとしています。
そうした現在、安倍政府が異様に力を込めて推進する「即位祝賀」を前に、その起点以来の幾百万の《戦没者》を思い起こす時、片や海の藻屑となり、片や南洋諸島のジャングルに置き去りにされて没し白骨と化した無数の彼らが叫ぶ、「テンノウヘイカバンザイ」、すなわち、「待て、同じ轍を踏んでくれるな」、の声が響き渡っているのが聞こえてきます。