3QsP Day 138(2021年12月7日〈火〉)
前回述べた「目標」の構想だが、ポイントは二つ。①健康戦略をベースとしたインフラ作りと、②「理論人間生命学」を枠組みとする生き方ビジョン。
まず①について、毎日の運動だが、漫然とした繰り返しではなく、目標を意識して、それに取り組む積極性。ただ、目標といっても記録を短縮するとか大会に出るとかといったフィジカルなものではない。身体への栄養に相当する、心への活性注入だ。午後の2~3時間を費やして創生する情報反応だ。つまり、身体運動を情報の発生装置とみる認識。
次に②だが、その「学」とは、いわゆる「学問」ではない実務的なもの。その情報反応を前提とした運動依拠的な日々の組み立てをベースにした、情・物一体的な人間像の実践。ゆえに、「越境」も、そういう一体化現象として捉える。
3QsP Day 140(2021年12月9日〈木〉)
過去7年間の運動の平均数値を経年比較してみた。
2018年で急激に悪くなっているのは、その前年の10-11月にクモ膜下出血で2カ月間、運動がまったく出来なかった影響である。しかし、その後はやや回復している。
Lazarusによると、下図のように、人によるBest, Good, Poor といったレベルの差はあれ(Poor からGood へといったアップグレードはないと著者は強調している)、年齢による運動能力の下降は避けられず、ことに75歳を境にした急な下降が統計的に指摘されている。さて、この先、このグラフ通りな変化となるか。
3QsP Day 142(2021年12月11日〈土〉)
何やらその気が湧いてきて、今日は16キロのはじりを完走。気温も二十度前半、曇りがちで風もあり、はじり日和。終わればさすがへとへと。だが意外に問題なく済んだ感じ。タイムも2時間17分だから、キロ当たりは8.56分(8分34秒)。往路が1時間7分半だったから、帰路は2分増しと、当然ながらペースはダウン。それもそのはず、日差しが後ろから当たって自分の影が目の前に落ちる。そのじじい走りの姿は、見るも耐えがたい。
思うに、このチャレンジ精神というか加虐心理というか、これは、ここのところの低調気分への一種の反動のようだ。まあ、確かに、それなりの達成感はあるし、疲労はたっぷりで、良く眠れるだろう。
3QsP Day 143(2021年12月12日〈日〉)
どうも、健康インフラということではなく、インフラ整備の意味をグレードアップして、運動によるインフラ整備のもたらす、脳機能の活性化――最低限に見積もっても認知症の予防――ということを目指せるということのようだ。
さらに言えば、身体活動というフィジカルレベルの活動が、脳という情報レベルの創生を起こすということであるようだ。
思い起こしてみれば、私の高校時代の運動部活動が自分の精神成長に確かな効果をもたらしていたとの体験の、再現ということなのかも知れない。
「オールディーの部活」ストーリーといったところか。
3QsP Day 145(2021年12月14日〈火〉)
「オールディーの部活」とは、二日前の表現だが、一日の休養をおいて昨日は、1500メートルを、けっこう楽に泳げた。そしてそれを受けての気分なのだが、実に生産的なのだ。つまり、運動とは、むろん運動不足対策どころか、「部活」であり、さらには、何らかの創生行為であり、その結果、身体的健康は言うまでもなく、心的健康は言わずもがな、誕生行為の感すらあるのだ。
この「誕生行為」だが、先に私は『フィラース』で「セルフ生殖社会」とのアイデアを提起した。そういう社会との認識において、運動とは、個人が自分を創生する活動なのだ。生殖期を終えた人間の二次生殖期であり、異性間セックスを必要としない、自己セックスあるいは雌雄同体生殖行為ともいえる。
10キロはじりが1時間23分弱と、悪くない記録。
3QsP Day 146(2021年12月15日〈水〉)
運動の位置付けだが、今までそれは、日々の活動中の副次的、つまり異常への対策活動だった。それを、日々の主要活動へ、格上げしようとの話である。
というのは、そもそも、年金生活の開始により、長年の「絶対」主要活動だった「仕事」つまり収入確保の活動がなくなり、日々の活動構造が根本的に変化していたはず。
ところが、長年の意識の慣性はしぶとく、その副次活動を主要活動と認識するのは、容易いことではなかった。
その「仕事」という役割が終わり、運動がそれに取って代わろうという時となっている。
つまり、現役人生では「仕事」が主役で、それが人生を色付けてきた。それが年金「人生」となれば、運動をはじめ、自分の《やりたい活動》が人生を着色するのだ。それこそ「ユートピア」ではないか。
かくして、職業がその人の姿かたちを決めていた現役期が去り、自分の意志が自分の姿かたちを決めるポスト現役期を迎えた。
これまで表現として、<運動を「仕事」とする>とは言ってきた。それがいよいよ運動は自主行為のひとつとなって、日々の人生に現実に組み込まれてきているということだ。
現役中は、余暇時間で行っていた運動だが、いまや日常時間でそれに取り組める。
この「余暇活動」との脇役から「日常活動」との主役へと格上げされた運動。
そうした日常による人生が、新たな次元の人生を描き出したとしても不思議ではない。
むしろ、ようやくにして、真に、自分の意志が自分の姿かたちを決める――自分が自分を形づくる――段階に至っていることだ。
運動によって整備された身体インフラを土台に、どんなユニークな自分を成そうというのか。
人生のバランスシートは、《受け取り》側から《創り出し》側へと転じた。
3QsP Day 147(2021年12月16日〈木〉)
整体師に診てもらった結果、足のすねの筋肉の凝りを指摘された(別稿参照)。確かに固く凝っている。そしてそれが、足に関していろいろ発生しているトラブルに関連していそうだ。
足のすねだから、自分でマッサージをするには、もっともやりやすい部位だ。それなのに、思えばそんな箇所を、ここまで放置しておいたのは自分としても盲点だった。確かに、ふくらはぎばかりに意識が集中していた。
ともあれ、ちょっとした時間でもマッサージしやすい部位なので、頻繁に試せる。
そうすると、血行が復活するのか、足先がぽわーと温まってくる。そして、正座した際の足のしびれのような感じがある――だいぶ弱いが――。明らかに、血行が回復し始めている兆候だ。
これが完全回復した際の効果が楽しみだ。
1000メートルを泳いだが、いつもなら足のつりを恐れて、キックは控えめにしかしない。それを今日は、意識的にいくらかキックを入れて泳いでみた。先週の同じ1000メートルより30秒近く短縮。
3QsP Day 148(2021年12月17日〈金〉)
今日は、好天ながら気温がやや高く、湿度も高い中、10キロをはじったが、その気象条件のためか、タイムは平凡だった。ただ、すねの筋肉の硬直がマッサージによってかなり柔らかくなっていて、その効果のほどが気になっていた。。
期待し過ぎはあるが、確かに、微妙なリズムやクッションが取りやすくなっている感じはあり、今後の結果が楽しみ。
3QsP Day 151(2021年12月20日〈月〉)
昨日、おとといと、気温が30度後半と暑すぎのため、運動はとりやめ。
今日は、上がっても30度ほどの予想で、プールへ。足すね筋の凝りもほぼもみほぐし、つれの恐れもないだろうと、キック付きで1500mを泳ぐ。39分32秒と、4月14日以来の39分台。1週間前の41分42秒からは1分10秒もの進歩。3週間前の40分12秒からでも40秒早い。足を使う効果が表れている。
3QsP Day 152(2021年12月21日〈火〉)
気温は多分30度を越えていただろう。往路4キロでへばって、帰路は歩き。空は快晴。終わってストレッチをする頃には、涼しい東風が吹きはじめ、芝の上に寝ころび、最高の爽快さ。青空高く、飛行機雲を引いて、旅客機が飛んで行く。
「はじり」ながら考えたのだが、運動を何々の<ため>とせず、たとえば山歩きのように、それ自体を楽しみとする。そういう「はじり」でいいのではないか。
むろん、その最中はたしかに苦しい。山歩きだって、その道中は楽ではない。だが、共に、終わった時の到達感、充足感、爽快感がたまらず、それをしている、そういうことだ。
「ため発想」という主客転倒をそろそろ止めよということか。
今日のはじり中、いつもの右足が再び痛み出していることに気付いたのだが、その場所が変わっている。今日のは、親指と人差指の間の付け根あたり。すね筋のもみほぐしのためか、出だしはスムーズなリズム感が気持ちよくその効果と満足しかったのだが、それで済まなかった。もみほぐしが原因ではないだろうから、しばし、様子を見よう。