運動のもたらす前立腺肥大者の排尿効果

メンテという仕事(その6)

ポン転 第77日(2023年4月8日〈土〉)

[ポ車/ポメタメンテ]今日のはじりはまるでひどかった。1キロほどで歩きに切り変えるほど、体が動かず。出だしも動きがかみ合わず、ただのはじりなのに、何やら難しいダンスでもしているぎこちなさ。呼吸もいつもと同じようにしているのに、苦しい。メンタル回路は開いているのに、フィジカル回路が切れぎれ。6キロ53分15秒なので、キロ8分53秒の歩き。おとといは8キロはじりで68分1秒だった。これはキロ8分30秒。歩きとはじりの差はわずか23秒。限りなく違いがなくなりつつある。

 

ポン転 第80日(2023年4月11日〈火〉)

[ポ車/ポメタメンテ]先週末、二日ほど運動が十分にできない日が続いた。ことに日曜は全くなしだった。すると、夕食時になっても、すっきりとした空腹感がわいてこない。その時間にはなっていて食事はするのだが、ただ習慣がゆえでどこか義務的なそれである。気持ちいいい食欲にさそわれるものではない。

さらに気付いたのだが、前立腺肥大による尿の細りが急にすすんで、異常に時間がかかる上に、終わった区切りがつかないで生活に戻る。そのためか、すぐに尿意がもどってきて再度トイレにゆく。しかし、たいした排尿もなく、ちょろちょろで終わる。それは夜になっても続く。これが、よく言われる頻尿による睡眠障害かと改めて認識させられる。

それが、昨日、今日と、まとまった運動をした日には、このちょろ尿がなくなり、出がよくなる。むろん、肥大のために昔よりはかなり細いのだが、出るのと終わりとの区切りがはっきりする。尿意で目が覚まされるのも、2時間は大丈夫。時にはもっと長くも眠れる。

それにこの数年、このほぼ2時間単位の睡眠を意図的に利用している。というのは、自分の発想力再生にちょうどいい長さで、頭が疲れて眠気がしてきたら、もう時間にかまわずベッドに入る。そして2時間ほどの眠りのあとは、頭がすっきりと回復していて、物書き作業を再開する。

そこでだが、こうしたサイクルが維持できることを正常と言うなら、そう運動が織り込まれた毎日を正常と言うことである。つまり、運動があって、気持ちのいい疲労があって、はっきりとした空腹があって、食事がおいしく、腹がいっぱいになると、どうにも眠くなって、つまらぬテレビなど見ずに2時間ほど眠る。時はもう、深夜に近いが、そこで起き出して冴えた頭で、思索作業に入る。それも3時間もすれば疲れて作業にならなくなる。

このごろの私の仕事のサイクルは、こうした眠りと作業のセットを、日に三度ほど繰り返す。残りの時間は、生活のための必要作業と、それこそ運動だ。

かくして、かろうじてだが、前立腺肥大による悪循環からのがれることができている。運動様様。

リタイア期という黄金の時期を生かすも殺すも、運動の有無にかかっているという、当たり前のような秘訣の話。

もどき医観察】ひとつの直観なのだが、自分にある、前立腺肥大、脱肛、そして運動時の尻穴絞り、この三者は別々に考えてきたが、どうやら一つのことの三面のようだ。少なくとも関連している。つまり、下半身の諸筋肉の衰えが、肥大、痔、運動能力低下をもたらしており、それを逆転させ、その筋力の回復と運動を結びつければ、肥大も収まり、痔も出なくなるという、好循環が起こるということだ。それに、以前に書いたが、泳いでいて足がつりそうになった時、尻穴絞りをすると、不思議にそれが収まることだ。

 

ポン転 第81日(2023年4月12日〈水〉)

[ポ車/ポメタメンテ]右足のトラブルがほとんど気にならなくなり――それでも時折、力の入れ方でツーンと神経的な違和感が走る――、はじりのタイムも、ほぼ平常に戻ってきた。これでそろそろ一件落着となるのか。

シドニーの夏時間も終わって、合わせたように急に涼しくなった。運動日よりの季節となった。

 

ポン転 第83日(2023年4月14日〈金〉)

これは[ポ車/ポメタメンテ]レベルの話から大きく飛躍したものなのだが、人間存在を量子レベルと同等化させてみて、そういう量子存在化した自分をもって、実証実験をしてみたらどうだろう、との話だ。

つまり、そう量子化しているなら、「もつれ合い」も「トランスポーテーション」も可能であるだろうから、それを実験で示すことも可能なはず。

そして、その実験として、自分を実験台にして、何かをやってみせる。

たとえば、ピアノレッスン。あるいは、他の何か、いわゆる芸術表現スキルの達成。

また、それをスポーツ分野でやってみたものが、自分のいまの運動能力もその一つなのかも知れない。

[ポ車/ポメタメンテ]ひさびさに、はじり8キロで、1時間6分を切り5分39秒となった。最後の5分台は、1月3日の5分32秒なので、3か月ぶり。相変わらず右足中指にツーンと走る違和感はあるが、痛みではない。走法も、スプリングが少々入った走りが続くようになった。ただ8キロ全部はもたず、最後の1キロほどは、ヘタヘタ走りに落ちる。

 

ポン転 第85日(2023年4月16日〈日〉)

[ポ車/ポメタメンテ]私にとって健康とは、ますます、自分で自分に作り出すことのできる身体資源だと思うようになってきている。極端に言えば、健康は維持すべき持っていたものではなく、もともとなかったものを作り出した結果の産物ということ。

若い頃なら、その資源は限りなく眠っていて、頑張り次第でいくらでも湧き出してきた。それが、体力の限界を感じ始めた頃を境に、維持するものとか、失いやすいものといった、守るものへと意識に転じ、さらに年がいけばいくほど、だんだん狭まる限界は当たり前なことで、そのなけなしの資源をいかにセーブしてゆくか、まるで目減りする貯金にすがるイメージ同然にさえなってきていた。

それが、日常化した運動の成果として思いはじめていたのが、健康が、所与のものというより、取り組み次第で、減りもするが、増えもするものと判ってきて、運動とその産物の健康をあえて「仕事」とも意識し、現役時代の緊張感の維持をあえて演出してきていた。ただそれでも、その意識にはまだ、健康はいつかは尽きる有限資源という守り姿勢は変わっていないものだった。

それが今日、運動前のストレッチで、芝に仰向けなって青空と流れる雲を見やっていた時、ふと頭をかすめるメッセージがあった。それは、「健康は、作り出して行く生産物」というものだった。つまり、所与の限られたものを守ってゆくというものではなく、おそらく取り組み次第で、いくらでも作り出してゆけるもの、というものだった。

というのは、足のトラブルもあって、「運動もいいが限度も必要」といった、健康コラムでよく見かける医師のアドバイス――結局は“マッチポンプ”な話――が頭にあって、委縮させられていた自分があったからだった。

それがその空と雲からのメッセージは、「そうじゃないよ、いくらでも作り出せるものなんだよ」と、医師のご託宣ではなく、自身の行為への信頼の大事さを告げていたのだった。

 

ポン転 第87日(2023年4月18日〈火〉)

[ポ車/ポメタメンテ]8キロはじりで、1時間6分37秒。おとといの日曜のそれと、2秒差だけの事実上の同タイム。ただ、今日は、右足の違和感もほとんどなく、完全に忘れていられるほどだった。ただ、往路では10キロまで伸ばそうかと思えるほどの調子だったが、それが復路まで続かない。最後の2キロほどは、完全なスタミナ切れ状態で、中年男性にいとも簡単に追い越される。以前にもあった魔の6分台。

 

ポン転 第88日(2023年4月19日〈水〉)

[ポ車/ポメタメンテ]今日は泳ぎの日。いつも、途中タイムを見たり、隣のレーンの泳ぎ手を意識したりして、つい頑張ってしまう。そこで今日な、何があってもリラックスを優先することでスタート。ところが、途中500メートルでのタイムが、例えば二日前のそれと大して変わらず、かえって力みがなくてスムーズな泳ぎになっている。そこで1000メートルの予定が伸びて1100メートルとなった。それでもタイムは30分10秒で、1000メートルに換算すれば27分24秒。おとといの27分02秒と22秒しか違わない。

 

ポン転 第90日(2023年4月21日〈金〉)

[ポ車/ポメタメンテ]今日もリラックス泳ぎで、むしろ、距離を伸ばそうと1250までは順調だったが、ターンの蹴りがきっかけで左足のふくらはぎがこぶら帰り。足は使わず手のみで1300でストップ。タイムは36分54秒。数年前の1500のタイムだ。

 

 

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