いつもの居酒屋、今夜は静かで、お客は二人のみ。だからむしろ邪魔が入らず、落ち着いて踏み込んだ話ができている様子だ。
客の一人は常連のAさんだが、今日は、年のころは四十路に見える専門職風の女性がそのお相手である。娘さんに見えなくもないが、二人のやり取りからは、そんな親子の近しさは感じられない。むろんAさんは「子なし」なので、父娘のはずもない。
その女性は、昔なら「男まさり」とも見られそうな「おひとりさま」の実践者のようで、その風貌からは、独身でやはり子なしらしく、家庭臭さなぞまったく伺えない。むしろ、しっかり自立した医療プロフェッショナルのようである。
常連客(Aさん) もう何年も前になるのですが、私はガン宣告をされている身なんですよ。前立腺ガンです。ただ、このガン、質はそう悪くなく、ゆっくりとしか悪さをしないみたい。だから今でも、こうしてピンピンしている。
女性 それはご心配ですね。でも拝見するところ、まったくご健康そうです。可能なら、何かお力にはなりたいですが、私は、医療に従事はしてますが鍼灸治療者です。いわゆる、はりきゅう師です。そうですから、すでにガンが発見されていて、それへの対応療法が重要とされる症例については、西洋医学の専門医のような応急な対応には答えられません。どちらかと言えば、長期的な対応が中心となります。
Aさん はい、それはよく存じています。だからむしろ、鍼灸がゆえの、東洋医学から見たご意見を伺いたいのです。
女性 まず、ご期待に沿えなくて申し訳ないですが、私の経験の限りでは、すでにガンを発症されていている場合で、それに局部的な治療をほどこすという面では、鍼灸治療において、私は成功した例を知りません。というより、どんなガンにしてみても、それをガン細胞に局部的な焦点をもって治療に当たるといった考え方はしないのが東洋医学なのです。
Aさん そう、そこなんです、私が伺いたいのは。
女性 たとえば、ご関心があるのはどんなことですか?
Aさん 私はいま、一人のガンサバイバーです。というのは、西洋医学の一分野である泌尿器科の専門医から、全摘を奨められていながら、それを拒否して、積極的観察を続けてきての今の私だからです。
女性 PSA検査とか、MRIとかの検査によって、ガンの状態をモニターしてきているのですね。
Aさん そうです。そして、そうしたモニターを続ける中で、最近、MRI画像からガン細胞の変化の兆候が見られたことから生検を受け、その結果、ガンの早期から中期への移行が発見されました。そこで、再度、全摘が奨められているところです。そういうことでいまお聞きしたいのは、ほかでもないこの前立腺ガンについて、それが発症してきた、東洋医学的な病理学上の見解です。その東洋医学特有のホーリスティックな観点で、このガンはどうして発症してきているのでしょうか。
女性 正直に申しまして、おそらく、その質問に適格に応えられる東洋医学の医者、ことに鍼灸医はいないと思います。と言うより、そもそもガン自体を病気とは見ないのです。
Aさん それなんです。ガンは病気でなく、いったい何なんですか。
女性 広い観点では、東洋医学ではそれを「気」とよぶものの乱れからくる身体的な変調の現れです。ですから、その乱れを直すことに主力を置きます。そして、その手段が、鍼灸でもっての、西洋医学的な用語を使えば、体の免疫力の回復です。自然治癒力の回復と言ってもいいでしょう。そういう、本来、人間が持っている力そのものが気で、それが弱まっているからこその病気やガンです。
Aさん 「元気」なり「やる気」の「気」ですね。それでは、私の場合、どういう風に、その気が乱れているのでしょう。
女性 これは実は、きわめて私独自の見方で、鍼灸医の間でも広く定着しているものではない、とまずお断りしての話ですが、それでもよろしいですか。
Aさん 実に興味深いです。聞かせてください。
女性 ではまず、これは一般論で、Aさんの場合がそうであるといういう意味ではありません。むしろ、それにどこまで該当するのかは、ご自身でお考えください。
Aさん なるほど、なんだか生検ならぬ、考えも含む全人試験みたいですね。
女性 私の見るところでは、前立腺というのは、男にあるきわめて性的な収束部だと見ます。つまり、それは全体として性器官を成すその一部です。それはペニスも含め、男性器全体を構成しており、その一部が前立腺です。つまり、男性にとっての、生物としての男たることの臓器的核心で、そこに発生しているガンが前立腺ガンです。
Aさん そうなんです。だからこそ、それを全摘するというのは、なにやら、自分の自分たるものを除去されるかの恐れや抵抗感があります。それは動物で言えば去勢でしょう。それを医師に言わせれば、私ほどもの年になれば、そんな性的なことへのこだわりはもう過ぎたことで、命が助かることに比べて微々たることではないかと言います。確かに、生殖という面では過ぎたことかも知れませんが、男にとっての内心はそんなもんじゃありません。もっと、デリケートです。
女性 その男の男たるところは、おっしゃるように、ただの臓器的なものではありませんね。ある意味では、男の誇りとか沽券といったものまで、その臓器としての働きとつながっています。それにそのつながりには、臓器としての働き以外に、ホルモンがあります。分泌される男性ホルモンと女性ホルモンが、前立腺ガンや肥大に関係していることは指摘されてきている通りです。
Aさん 男性ホルモンが、前立腺肥大やガンを引き起こすらしいですね。だから治療には女性ホルモンを注射するとか。
女性 西洋医学上では、治療法の一つとしてそういうホルモン療法を使用します。しかし、私が言うのは、そういうホルモンの働きに関し、私たちの体が持っているその分泌や両性ホルモンのバランスということです。そしてそれが、どうして乱れるのかと言うことです。ある意味では、実に、生物情報的な世界でのことなのです。
Aさん ホルモンが、生物化学物質であると同時に、生物情報を運ぶ要素だということですか。
女性 はい、まずそれが第一の観点で、つぎに、生物体内におけるそうした化学物質的側面だけじゃなく、その情報としての機能と男たる生き方とが執拗に結びついている。あるいは、人為的に結び付けられている、ということです。
Aさん 人為的って、私自身や誰かがそんな強要を行っているということですか。
女性 人為的という言葉は誤解をまねきやすいですが、社会的といってもいいでしょう。だからゆえに、そうした社会全体の観点から言えば、その生き方としての男の誇りとその人の男性ホルモン状態が陰に陽に関係してきていると考えられることです。そうだとすると、男の沽券たるものが、前立腺ガンを引き起こす原因ではないかとさえ言えるのではないかということです。もっと言えば、男っぽさを意識した生き方がそのガンを引き起こしている。ひっくり返せば、男っぽい生き方を止めれば、前立腺ガンにならないかも知れない。
Aさん ええっ、ならば、ゲイたちは前立腺ガンにならないってことですか?
女性 そういう医学的統計はまだされていないのですが、この仮説は調査して検証する意味があると思っています。ただ、ゲイといっても複雑で、生来のゲイから、男をやめたいため手術でなるゲイもあります。つまり、本来、男女という生殖上の働きって、別に男の沽券や、女の従属なんかに頼らなくても出来ることです。それが、ジェンダーという社会的な男女の区別が出来上がっていて、誰もが意識せざるをえない不自然な男女の役割を強制してきている。ですから、飛躍して聞こえるかも知れませんが、ジェンダー性別がなくなれば、少なくとも、前立腺ガンは起こらない可能性がある。
Aさん そういう話では、思い当たるところがあります。男も女も、生殖可能時期を終わらせ、いわば人生の二周目に入ると、両性が中性化するかのような、何やら、それまで互いに我を張ってきたというか、互いに領分を競ってきたというか、そんな二分された違いが、しだいに雪解けしてゆくような感じがありますね。性欲だって、ゼロになるというのではないですが、それまでのような征服的ものではなくなってきている。だから、それをいつまでも、「死ぬまでセックス」みたいに、男らしさとか、女らしさみたいなものに固執しているから、変な頑張りや体裁を維持しなくてはならず、あげくには体がもたなくなって調子を崩し、それが不健康のもととなるのじゃないか、そんな風に感じられるます。
女性 そうなんですよ。ですから、病気にまでならなくとも、定年退職してもまだ以前の沽券を引きずる夫が、妻にとっては、もう嫌でいやでたまらなくなる。
Aさん 定年で職をなくすだけでなく、同時に離婚まで突きつけられるケースですね。
女性 まあ、ここまでくると、話は、医療の問題というより生き方の問題となるのですが。ともあれ重要なのは、男女両性が物質面でも情報面でも、密接に絡み合っていること。それを、いずれをも局所的な現象として、バラバラにしてちぐはぐに扱ってしまっている。実はそうではなく、私たちの命や健康、そして病気ってのは、そうした全体が密接につながりあった調和の問題だということです。その調和の乱れのひとつの現れがガンということで、ことに前立腺ガンについては、そうした男女性の調和の問題であることです。
Aさん 今から自分の生き方を変えていくとしても、この起こってきちゃったガン自体には、間に合うんでしょうかね。
【まとめ読み】
第一話 料理は身を助ける
第二話 「うら、おもてなし」
第三話 上の口と下の口
第四話 「粒子」と「波雄」
第五話 秋の日本へ
第六話 きれい好き日本
第七話 道路と鉄道って、別々でいいの?
第八話 過去と今時の性事情
第十一話 えっ、「発達障害」? 俺だって
第十二話 「年寄りの冷や水」しようぜ