今夜の居酒屋談義は、親父と息子のやり取り。親父のカジュアルな服装と、息子のタイ抜きでもスーツ姿は、リタイアをめぐる「アフターとビフォー」を物語っている。
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親父 「こうやって二人して外飲みなんてのは、えらく久々だな。」
息子 「そうだね、何年ぶりだろう。」
親父 「二人して現役のころは、親子にしては、わりかし飲み合ったよね、われわれ。でも、リタイアしてから、お母さんと田舎住まいを始めちゃったこともあって、地理的にも遠のいていた。」
息子 「うちの子供たちも、もう自分たちで好き勝手に行動しだして、以前みたいに、おじいちゃんおばあちゃんって、あんまり言わなくなった。」
親父 「それに、お前も忙しい盛りだろう。新しい役職にも就いたことだし。」
息子 「まあ、上司が転職して、ポストが空いたから。」
親父 「今時、そんなイージーな話はないんじゃないかな。謙遜はいらんよ、俺の前なんだから。しっかりやった成果だと見てるがね。どうなんだ。」
息子 「そこなんだけど、最近読んだ雑誌記事で、親父ならどう思うのかなぁってのがあってね。それはね、企業内でけっこう成功してきた人が、リタイアして企業人でなくなると、お金と暇にまかせて、それまでの人生をまるで台無しにして、“闇落ち”してしまうって話なんだ。そういうのって、よくある話なのかなあ。リタイア経験者として、どう思う?」
親父 「もうちょっと、詳しく話してくれないか。」
息子 「うん。例えばね、それまでは広く人望を集めていた人が、リタイアを境に人生を一転させ、退職金をつぎ込んで手打ち蕎麦屋とか一杯飲み屋に転身する。だけど、かつての同僚や友人も、一度や二度は義理で顔をだしてくれるがそれまでで、やがて商売は行き詰まって閉店に追い込まれる。あるいは、有能だった人でもリタイア後、いわゆる陰謀サイトにはまって過激な言動が目立ちだし、奥さんも困まり果ててるとか。そういう、再チャレンジといえば聞こえはいいけど、要するに、非常識に走って“闇に落ちる”退職者が少なくないって話。」
親父 「お前自身も他人事じゃないってわけかな。」
息子 「そこが微妙なんだけど、そんな男のロマン話には、正直言って、ウソじゃない面は確かにある。まさか飲食店開業は考えないとしても、ニッチな新展開のアイデアぐらい、ないわけじゃない。」
親父 「そうか。俺もだいぶ前、似たような記事に目をとめた記憶はあるね。だがそのころは、そんなロマンをむしろあおるような記事だった。しかし、それを今になって“闇落ち”呼ばわりするなんて、なんだか都合がよすぎる話じゃないかな。」
息子 「そう、そういう長い目で見た意見が知りたい。つまりこんな記事って、作り話だったってこと?」
親父 「というより、雑誌社の編集者やライターたちが練り上げた、時勢をさらおうともくろむ、いかにも実話のような教訓物語――というビジネス戦略。つまり、サラリーマン人生をめぐる、つい引き込まれそうな悲喜劇についての訳知りめいた話の出版。そういえば思い出したが、むかし、日経朝刊の連載小説に、きわどい性描写の企業管理職の浮気話が掲載され、毎朝の満員電車内では、誰もが真っ先にその連載を読んでいるなんて話があった。たしか『失楽園』なんて題名だったかな。だがその連載も、最後は悲劇で終わって、読者は白々と現実に舞い戻らされる。今のお前の話も、そんな巧みなマッチポンプ物語の二番、三番煎じかもね。」
息子 「それを読む、こちら読者側としては、勤め人なら誰しも、心のどこかにしまい込んでいる切な思いが、そうやって白昼の人目にさらされ、君も同列な人間になり下がりたいのかと“公開裁判”されてる感じ。」
親父 「つまり、そういうストーリーって、きまって、大いに引かれるけど容易に乗るわけにはゆかない、サラリーマンたちの切実なジレンマを描いて、それでいて最後は、頭冷やせと言わんばかりに、体のいい訓話にまとめられている。」
息子 「ガス抜き話?」
親父 「それ以上かも。つまり、そうした話にブレるのも人情だが、そこはしっかり賢明に自分を保ち、家庭責任もあることだし、企業社会の奥深さを再認識しようってのご託宣。要は、そこまで過酷なサラリーマン人生を知り抜いているがごとくに、先回りした鎮痛薬投与。しかも、出版社というフィクション薬製造会社の売れ筋商品にしようとね。」
息子 「なるほどね。でも、親父の時代なら、その末期だったとしても、定年という年功序列・終身雇用の最後を飾る、一応の退職金は出たよね。それに年金もそこそこ支給されてる。」
親父 「今から見れば、のどかな時代だった。」
息子 「それがこれからの時代となると、もう、退職金も定年延長の賃金原資にまわされ、もはや行方は、終身労働同然の世界。それに年金も、頼りとするにはもう自前積み立てしてゆくしかない。だからね、なんとか別な本心を温めつつ、途中の過労死はくぐり抜けたとしても、結局のところ、身心がどこまでもつのかをかけたデスレースしてることに違いない。」
親父 「だからこそ、蕎麦屋だろうが陰謀論かぶれだろうが、健康をすっかり献上する前に独歩の道を探ってみるって話は、ことを見通せる人なら、考えざるをえない道すじ。それを、迷い込みやすい“闇落ち”なぞとレッテルを貼って揺さぶり、企業への帰属こそが最大の保険と説いている。つまりは、企業論理イコール各個人の人生論とした、企業一色以外にまるで選択肢のない社会って話じゃないかな。我々、いったい何のために税金を払ってきてるんだろう。」
息子 「じゃあ親父も、蕎麦屋への転身みたいなことを考えてたんだ。」
親父 「蕎麦屋どころか、いまだにこんなことをのたまってる俺って、それこそ、元祖陰謀論者と、ブラックリストの筆頭に上げられてるかも。」
息子 「つまり、自分の人生を、リスキーな独歩かセイフな帰属かと、企業論理にすり替った二者択一論に乗せられないよう、用心せよってことか。」
親父 「そう、人間、この世に生きてるってのは、リスクや安全や幸せを、何にも頼らず、縛られず、自身でフルにマネージしてゆく、そういう喜怒哀楽や醍醐味あってこその人生。それを、誰かに先回りされ、先取りされ、脅しもされて、こっちが正解ですよと言われたって、はいそうですかと言うわけにはならない。」
息子 「自分も管理職として、一種の二者択一なマウントをとって、部下を引きとめようとしているフシはあるね、正直なところ。」
第十四話 ペットって、家族より家族
第十五話 男ならではの腹中談
第十六話 「おひとりさま」と「おふたりさま」
第十七話 「老害」か「マネー奴隷」か
第十八話 ネットという新「社会」
第十九話 B、X、Y、3世代の対話
第二十話 男だてらフェミニスト
第二十一話 トランプって結局なに?