「命持ち」へ仮説拡張

 「運動」とは「自己組織能力」インフラだった

「人生三周目」予告編 第八号

「お金持ち」という言葉がある。今日の普及用語にすれば「富裕層」となろうが、むろん私はそれには当たらない。むしろ、それからの「外れ」具合を”持ち味”に生きてきている「層』である。そうした「層』の一員である私が、この8月に傘寿となる。そうして「人生三周目」に入るということで、それへのグランド構想を模索しているというのが、この「予告編」のテーマである。

 

その連載がこれまでにすでに7回を数え、この8号では、そんな私がゆえ、たとえなけなしでも、自負できるせめての「持ち物」は何かを意識し、この「お金持ち」に代わる何かユニークな言葉がないかと考えて思い付いたのが、題名に挙げた「命持ち」である。間違っても「お金持ち」ではないが、「命持ち」。地味な聞こえだが、その含みは浅くない。

他方、私の造語ではなく、人々に長くなじみ親しまれている言葉の一つに、「かけがえのない」という形容詞がある。そして、この言葉が最もしっくりと似合ってよく一組になるのが、「かけがえのない命」という表現だろう。

そうして、その「なけなし」の私でも、その「かけがえのない」ものはあるという狙いで、私は自分をこの「命持ち」に託してみようと思い付いた。

 

さてそこでなのだが、じつはこの「命持ち」とは、「お金持ち」と比しても、そうは容易でないことではないか、とふと頭をかすめた。

というのは、これは自分の経験に過ぎないが、お金と命、あるいはその前提の健康というものが、なかなか両立できるものではないことだ。むしろ多くの場合、ことに生活者にとっては、それは二者択一にも等しい苦い選択として、日々、どちらかを採ってきているのが現実であると思う。

言い換えれば、生活のための必要として、そうとう多くの場合で、命は、お金に引き換えられて、縮められている。

 

私は子供のころ病気がちであったためか、自分であえて意識したわけではなくとも、自然に自分の身体状態に神経質だった。そしてやがて健康になるにつれ、自分が運動ができることに喜びを感じ、どうもそれが、運動を続けることの動機となってきたようだ。

そうした無意識な健康志向も手伝ったのだろう、他の記事(「ひとつの仮説」)にも書いたが、日々の運動習慣が長続きすることとなり、この年齢にいたって、それこそ、「かけがえのない」ものを作ってきたのだということに、気付かされることとなった。

そうした一生がかりの認識に達する一方、私はその人生途上、登山に深く親しむだけでなく、それを人生の模式と見るようになった。いうなれば、登山という命がけともいえる行為を通じて、「命」あるということの仕組みやその過程を発見していたと言える。

要するに、そうした長年の背景をもって、この「命持ち」との言葉が造語された。

 

さてそこで、そういう「命持ち」ならば、そういう自身の人生の「三周目」に臨むにあたって、そのグランド構想とするものは、どういうものとなるのか。

そこで、その「命」の作用の根幹として取り上げられることが、「自己組織能力」ではないかということがある。

かいつまんで言えば、「自己組織能力」とは、体につけてしまった傷が自然に治ってしまう、生命体のもつ実に不思議な能力である。

そこで、自分の「三周目」の取り組みのキーポイントとして、この「自己組織能力」を掲げようと思う。

 つまり、長年の運動とは、筋力を増すことでも、記録を伸ばすことでもなく、体調の微妙な変化に気づき、無理をしない判断を重ねてきた、それが私のいう運動である。そしてその積み重ねが、「自己組織能力」に触れえてきた入口経験だったのではないか、というひらめきである。

そしてここで言えるのは、この一種の「ひらめき」との形こそが、「自己組織能力」の在り方なのかもしれず、それはただ、採り上げるか否かとしてのみ、姿を現すものなのかも知れない。

こうした認識を足掛かりに、そうした生活実感とともに、自分の微々たる経験を活用しながら、私は自分の道行きや道具立てを自ら見付けてゆくしかない。

そこでの方向がこの「自己組織能力」と称されるものであり、かくして、そのグランド構想の眼目にすえることなった(『フィラース』「私風人間生命論」参照)。

なにやら、すごい「味方」を得たかの感触でもある。

 

 

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