QL-Day 63(2019年2月25日〈月〉)
日本式に言えば、空高い秋の日、はじりも調子が上がって、久々に標準記録以下で8キロを終えた。タイムは1時間3分3秒。キロ8分の標準記録でゆくなら、1時間4分。約1分、それを短縮した。
QL-Day 65(2019年2月27日〈水〉)
今日は蒸し暑く、あまりはじり日和ではなかった。6キロでやめたのだったが、タイムも標準記録を大きく上回った49分40秒。
そうなのだったが、ここのところ、「健康が健康を呼ぶ《良・循環》」などという言い回しに象徴される、ある新たなアイデアに到達しつつある。
それを言い換えれば、「筋肉にも意識がある」といったアイデアである。
少なくとも、健康のお陰で、エクササイズも、トレッキングも維持できる、そういう身体機能がもたらす、意識の水準である。
それはあたかも、「筋肉のもたらす意識」と言ってもよいような、脳中心の意識ではないものだ。女性の心臓を移植された男性が、その女性が持っていた意識や行動を表したように。
逆に、自分の筋肉が衰退して、動くことすら不自由――たとえば寝たっきり――となった場合を考えれば、そこでの意識がどんなものとなるか、想像に難くない。
QL-Day 68(2019年3月2日〈土〉)
私がリタイア生活に入って以来、体験として試行錯誤しながらこれまでに実行してきたことは、総じて言えば、「分業――近代社会の生産過程の基幹形態――以前のライフスタイル」に戻る事であったと言えそうだ。つまり、社会との接点としてのパートタイム仕事、自力生活としての家事様々、エクササイズを主体とする健康増進、余暇活動の積極取り入れなど、毎日の自分の生活にそれらを多彩に含ませてきた。ということは、卒業後社会に出て以来、仕事のために必要であった《分業》上の強要――自分を効率的に“売る”ために必要な特殊分野への専門化――から自由となり、人間としてのバランスのとれた総体を回復していることを意味している。
これを「《分業・前》ライフスタイル」と呼ぼう。
つぎに、そうしたライフスタイルをそれが実施されている環境空間からとらえると、それは、そうした分業によって適応を強要されてきた断片環境と言うことができよう。つまりそれは、自然からは切り離された都会環境で、獲得可能な貧狭住宅に住み、混雑極まりない通勤に耐え、長時間労働がゆえの家族生活の欠乏(貧食、貧だんらん、貧夫婦・子供関係)、そして、そうしたストレス満載な日常生活を原因とする病的健康状態への帰結などなど、人間として必要な総体性を欠いた“狭くて病的な限定エコロジー”である(付け加えておくべきは、そうした分業内容の劣悪化が進み、収入や労働条件次第では、こうした諸要件すら一つひとつ困難となって、いわゆる脱落者へと追いやられて行っている)。
これこそ、上記の「《分業・前》ライフスタイル」に対応させて言えば、「分業ライフスタイル」の典型(と、その末期現象)である。
QL-Day 71(2019年3月5日〈火〉)
昨日はエクササイズをしそびれた。そこで今日はと意気込んだのだが、気温が高く、8キロのうち、最後の2キロはへばって歩きとなった。
この1ヶ月間のエクササイズ・ログ
2月07日(木) サイクリング 20km
2月08日(金) 自・電車通勤 自転車走行 8km
2月09日(土) 自・電車通勤 自転車走行 8km
2月10日(日) 自・電車通勤 自転車走行 8km
2月11日(月) はじり 6km 50分18秒 76.4kg
2月12日(火) ミーティング
2月13日(水) はじり 6km 49分56秒 75.2kg
2月14日(木) 自・電車通勤 自転車走行 8km
2月15日(金) 自・電車通勤 自転車走行 8km
2月16日(土) 自・電車通勤 自転車走行 8km
2月17日(日) サイクリング 30km 76.0kg
2月18日(月) はじり 6km 52分13秒 74.8kg
2月19日(火) なし
2月20日(水) はじり 8km 1時間05分53秒 76.0kg
2月21日(木) 自・電車通勤 自転車走行 4km
2月22日(金) 自・電車通勤 自転車走行 8km
2月23日(土) 自・電車通勤 自転車走行 8km
2月24日(日) なし
2月25日(月) はじり 8km 1時間03分03秒 75.2kg
2月26日(火) ミーティング
2月27日(水) はじり 6km 49分40秒 76.2kg
2月28日(木) 自・電車通勤 自転車走行 8km
3月01日(金) 自・電車通勤 自転車走行 8km
3月02日(土) 自・電車通勤 自転車走行 8km
3月03日(日) サイクリング 30km 77.0kg
3月04日(月) なし
3月05日(火) はじり 6km 49分20秒 74.6kg
3月06日(水) なし