「オールディー発達学」の提唱

人は二度誕生する

 老人学ー序論(その3)

最初に呼称の問題について触れます。すなわち、「老人」とか、「高齢者」とか、「お年寄り」とかと呼ばれる年齢層の人たちの呼称ですが、ことに自分自身がその一人として、そのどれを使われても、しっくりとこない問題があります。ことに、健康で自立して活躍している“ポスト現役世代”――年金受給者であるがゆえに「ポスト現役」世代と見る――にある人たちにとって、抵抗なく受け入れられる呼称がほしい。

英語圏の国々でも同じような事情があるようで、最近、「oldie(s)」という語が使われ始めています。この語は、本来は「古くさいしゃれ」「古い映画」「懐メロ」といった意味だったのですが、それを、上記の意味にも転用し、ことに、その該当年代の人たちが自分たちのことを、そのようにやや自嘲的ながら親しみを込めた表現として、使い始めているようです。

そこで本稿でも、このoldieをお借りして、「オールディー」とカタカナ書きして日本語化したいと思います。

 

さて、そのような新語が必要となるほどに、そうした世代層が“新登場”し始め、この傾向は今後ますます広がると予想されます。

そこで、自らもその一人として、「私たちオールディー」と共有の上、ある種の「意識改革」をアピールしたいと思います。

そのまず第一に、「オールディー世代」は、自分が年金受給者でもあることに関し、明確な自己認識を持とう、と宣するものです。

それは、「年金受給」とは、自分達が現役世代に積み立てた資金の後払いであり、現在の現役世代の“世話”になっているとの筋合いのものでは決してないことです。(この年金の「積立」か「賦課」かの議論については、日本の歴代政府の年金資金運用の失敗とその責任転嫁に係わる重大な問題が潜んでいます。その詳細については「老若“共闘”」を参照)。

第二に、年金という社会保障制度を一方に置き、それをさらに発展させた「健康という年金」という見識があります。それは、「現役時代にかすめ取られなかった自分の健康」を維持したまま年金受給時代を迎え、それを原動力に、いよいよ自分の生命活動の真の創造性を実現しうるステージに到達しているとの認識です。

つまり、年金をその名の通り、お金の問題と受け止めること、あるいはそう仕向けられること自体が、健康というもっとも重要な自分の“財産”から目をそらさせられ、その受給を代償に売り渡してしまうという、現代のシステムに仕組まれた巧みなトリックです。

総じて言えば、資本主義体制にとって、命とか健康とか家族とか環境とかという、お金には代えられない物事を、お金の問題にすり替えてしまうトリックこそ、その体制存続の最大のうま味なのです。

歴史的に見れば、人間社会は、いわゆる生産人口の「現役活動」を通じて、社会体制を物的、制度的に構築してきたわけですが、その産物のひとつである社会保障制度の一環として年金制度を充実させてきました。その結果、病んで引退した人々に医療を提供する一方、病まずに引退する健康な年金生活者の出現――これこそが「オールディー世代」の存在の社会的意味――をも生んできています。

この資本主義による健康摩耗をなんとか乗り切った人口の登場こそ、いよいよ人類は歴史上で初めて、人間という生命活動による、個人かつ社会の双方の真の創造的時代を迎えているということです。これは、永年の物的基盤構築の上にいよいよ花咲く、心的――脱物質的――創造の時代の到来です。

(それを、老若分断し、両者いがみ合う社会に仕向けて自己の温存を図ろうとする政府なぞは、国民からは、もっとも忌み嫌われるべき存在です。)

 

以上のような認識と意識改革に立って、年金生活の開始を、社会の物的基盤完備の実現と捉え、そしてその開始をもって、私たちオールディーは、第二の誕生を体験していると考えます。すなわち、第一の個体誕生の次に達する、第二の、そして社会的誕生です。

 

以上をもって、老人学の序論を終え、本論に移る段階となりました。

ここに新たに、「オールディー発達学」を設置しようと構想しています。

言うなれば、小児成長学の、オールディー版です。

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