「局地、非局地」の分離体験

TST Day 256(2022年12月8日〈木〉)

今日のはじり、初めは足が重たく、不調かなと思われた。それが、2キロ過ぎのあたりで、後から来た小柄な女性にいとも簡単に追い越された。これに奮起されてペースを上げた結果、8キロを1時間3分59秒でゴール。わずか1秒とはいえ、8分/kmの標準ペースを切って3分台を出したのは、昨年6月23日の1時間3分33秒以来。さすがに息切れがし、左ふくらはぎが攣りそうになったが、無事完走。これを無理と見るか、まだある可能性と見るか。

 

TST Day 258(2022年12月10日〈土〉)

今日、いつもの8キロをはじったのだが、ほとんどおとといと同タイムの1時間4分4秒だった。そしてその後のことなのだが、西に大きく傾いた夕日をあびながら、クールダウンをしている時だった。夕日にむかって胡坐し、呼吸をととのえつつ太陽凝視していると、あたりの光景が何やら不思議な様相を持ち始めた。

むろんそれは、いつもと何ら変わらないはずの光景なのだが、これまでとは確かにちがうのだ。いつもなら、それは観察者たる自分が明瞭で、「自分ならではの光景」とひとり悦に入れたものだった。それが今日は、そうした観察者たる私が消えてしまったかのような、光景だけがそこにそのように在り、自分の存在などただの透明な気体でしかないようなのだ。

考えて見ればそれもそのはずで、もし私がそこに居なくても、その光景は何ら変わらなく存在しているはずだ。

つまり、その公園の芝生上に胡座している自分が、あたかも将棋盤上の一つの駒がつまみ上げるように取り除かれ、そこに、自分に代わって、ただカメラのような視力のみが在りつづけていたような、そんな感じの体験であった。

こんな体験は初めてのことだ。それにしても、二日前とは何が違っていたのだろうか。

二日前の同じ場面では、けっこうな疲労感とともに、好記録を出せて「やったぞ」といった高揚感もあって、自意識は興奮し、明瞭であった。

それが今日は、そんな興奮はまったくといっていいほどなく、いとも淡々として平静このうえもない。まるで、興奮すべき自意識から分離され、ただ、視覚機能だけが、そこにぽつんと置き去りにされたかの如くなのだ。

想うに、走るという一種の瞑想状態を維持してきて、ゴールはしたものの、頭はその瞑想状態を続けて「空」のままで、一方、身体はもう走る必要はなく休止し、ただ、視覚だけが働き続けていた状態であったのだろう。

そのようにこの日、想念と身体の二つの働きの分離が起こり、視覚という身体機能のみが働いていたのだろう。

 

夕方の公園で、そんな体験をしていた時、ふと頭をかすめたものがあった。

それは、これが「非局地的自分」ではないか、といった思いだった。それはつまり、「局地的自分」が抜けた自分で、ただ、光景を映しているカメラに化したような、視覚感覚だけがそこにあったのだった。あるいは、少なくとも、この「局地、非局地」の分離状態を、私はそう、体験していたのであった。

 

TST Day 269(2022年12月21日〈水〉)

8日以来、エクササイズが順調だ。8キロはじりでみれば、この2週間、二日に1度の頻度で、1時間4-5分のタイムが続いており、平均すると1時間4分51秒と、5分を切っている。別に記録更新を意図している積りではないのだが、出来る限り現状を維持しようとすると、こうなる。つまり、こういう健康の維持の仕方。

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