日本的エコロジカル社会

下り坂日本の持つ強み

3年ぶりの日本で見出す

この11月のほぼ丸ひと月を日本で過ごした。

コロナ禍のおかげで3年ぶりの、しかも今や、混迷の極に向かいつつあるかの世界情勢のさ中の日本に在って、あらためて考えさせられたことがある。

それは、出生国――ことに「故国」とはしない――日本をめぐるひとつの温故知新であり、あるいは、そういう日本をめぐって開かれつつある、ある種の回帰的視野である。

また、切り口を変えてこれを述べれば、今年76歳である私は、38年前、この地オーストラリアを脱日本・向世界の拠点として選択し、いまやこの地での暮らしがそれ以前の出生国日本でのそれと、ぴったり半々となった。そうした両国体験のまさに均衡点における実感的視野である。

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ここでそういう視野を一言に煮詰めれば、日本という国が持つ、この世界においての《独自性》である。

ただしこの視野は、このきな臭い世界情勢が生みつつある、新手のナショナリズム――異様に好戦的――に合流して行くものではない。

まして、いま中国が傲慢ほどに主張する「中国世界モデル論」に対抗する、その日本版とする積りも毛頭ない。

そういう国家政治次元の概念としての位置付けではなく、あくまでも、一人の人間が、自分の出生国について抱く思いとしての認識である。

言い換えれば、この視野は、現在という一時的状況にせき立てられての産物ではなく、少なくとも私の人生の76年というスパンを通した体験と思考の産物である。

 

そこでたとえば、きわめてエキセントリックな例をあげ、反面教師風に述べるのだが、「日本ユダヤ同祖論」というものがある。

それは、日本人とユダヤ人を同族視するもので、古代ユダヤ民族が紀元前2700年に、エジプトの地を追われて流浪の旅の末に日本列島に渡来し、そこに定着したのが日本人のルーツとする説である。

戦前、ユダヤ人の精鋭アインシュタインが日本を訪れた際、「近代日本の驚くべき発展」を賞賛し、「来たるべき世界政府の盟主は日本が担うことになるであろう」と予言し、さらに「そのような尊い国を作っておいてくれたことを神に感謝する」と語ったとさえ言われている、そんな話がまことしやかに信じられている着想でもある。

こうした異説をここで取り上げるのは、日本人の独自性を述べようとする際に、この種のトラの威を借る説が引き合いに出され、いかにもそのディープな根拠とされる点で、何やらアメリカの「Qアノン」を思わせる事大主義に似てなくもない。むろんどんな見解を表わすのも自由なのだが、独自性を言うのなら、他人頼みではなく、自らに由来する確固とした論点があるはずだと思う。

すなわち、私の視野とはそうした借り物の威力に頼るものではない。加えてこの借り物依存の主張とは、米国のような覇権を君臨する国の支配に自ら甘んじていられる姿の鏡像とも言える。なぜなら、いずれも、自ずからの堅実でぶれない自信に由来するものではなく、時に虚勢を張った反発、時に隠された卑屈において、共通する起点があるかに見受けられるからである。

あえて指摘すれば、結局、他者に自ら媚びを売っているに等しいことに自分で気付いていないところに、独自性を問題とする姿勢とは真逆で致命的なものがある。

要は、ただただ平常心において、自らの自分らしさをを、どう発見しそれをいかに貫けるかの問題である。

 

そこでだが、昨今の日本の国際的地位が低下の一途をたどっているとの見解について、正直なところ、それはそれで否定できないでいた。そこにコロナ禍の空白の3年が立ちはだかって、ようやくこの一カ月、ある種その検証をする気持ちを伴っての日本滞在となった。

そしてその間、日本の世界での地位低下という一般論どころか、私のよく知る人たちの生活の在りようが、個々に程度の違いはあるにせよ、確かに悪化している具体的様相を目の当たりにすることとなった。それは、一部の「富裕階級」は別として、多くの日本人のいっそうの苦境へと向かわせる動向の検証となるものだった。だが、そうであるにもかかわらず、政治レベルにおいては、眼をおおうほどの劣化状況が、そうした苦境化を加速さえしている痛々しい現実として広がっているのであった。

 

ただ、こうした状況にあっても、日本社会の日常は、あたかも何事も起こっていないかのようにいとも整然と流れていた。それを、遅れてこの滞在に合流することとなった私の日本びいきのオージー友人は、乱れの見られない、いまだ秩序を失っていない社会として、こうした日本を一種の感動と共に受け止めていた。

すなわち、日本の人々はこの容易でない状況を、確かに黙々と、堅固に耐えている。それを外国のメディアはとかく、日本人の羊のような隷属と表現する。それをこの友人は、その整然さを日本のユニークさとして、積極的に取り上げようとしている。

つまり、世界の先進民主主義諸国は、この時代を先導して克服しているどころか、その世論は分裂し、その国民的一致を見出せなくなった社会が、それぞれのエゴをわれ先に追い始めている状況を呈し始めていると言ってよいだろう。

かくして、それを口に出して指摘しても、結局は無駄同様どころか深刻な混乱さえ招くことが山積し、現実の戦争すら勃発してきている。どうやらそれを日本人は、声の大きいものがより多くを獲得すると、そうした事態の結末をよく心得ているかのようである。ゆえに、政治家は別にして、そんな徒労には一様に手を出そうとはしていないかに見受けられる。

そこで、こういう日本の、一見アパシーとも受け止められかねないあり様をどう捉えるのか、議論が分かれるところである。

 

私は、世界が遭遇しているこうした厳しい情勢に、そのようにあたかも平静に対している日本人性を、ある種の肯定性をもって受け止めたいと思い始めている。

それは一種の、日本社会の底の高さではないかと、私は見る。それも、物質的な高さではなく、人々の心性の在りようの高さとしてあるのではないかと思っている。そしてそれは、一見、社会の古さのようにも、非合理性のようにも見えるのは確かである。だが、その近代性、合理性が、世界的に無惨にも行き詰まってきているのも他方の真実なのだ。それを、上記のように「日ユ同祖論」を持ち出さねばならぬような発想は、いかにも「ぶち壊し」な所作なのだ。

かくして、それは時間を要するのだろうが、比較的フラットな社会での日常生活レベルでの配慮――自分の持ち場を活用し、苦境を出来るだけ分散して負担し、転落する人をより少なくする――は、相対的かつ独特なものだが、他の国々よりは進んで取り組まれているのは確かだろう。

要するに、その取り組みは、政治先導によってシステマチックに遂行されるのではなく、それに頼れぬ分だけ、比較的成熟した生活レベルでの個人間や自主的グループ同士のやり取りが先行する形でこなされている。

それだけに、公的基準はちぐはぐで、見たところは矛盾だらけな成果しかもたらされていない嫌いはある。そうではあるのだが、それが時間をかけながら長きにわたって持続されるなら、結果として、社会の隅々までもの浸透と底辺の向上をもたらしうる代替策として機能するのではないかと考えられる。

しかもそれは、無機質でも機械的でもない、人間同士のエコロジー関係と言ってよいものである。つまり、どこか自然の在り方にも似ている。あるいは、複雑系の飛躍をも内包している。

どちらを向いてもネガティブな状況ばかりが目に付く昨今にあって、こうした特異な在り方はどこか新鮮でもある。

 

ところで、日本には「そんたく」という言葉やその現実が横行している悪弊がある。

それは政治次元では、「へつらい」であり「ゴマすり」であり、ひいてはつるんだ「職権の私的乱用」を意味し、言語道断は言うまでもない。

しかし日常生活レベルでは、それを「そんたく」と呼ぶかどうかは別として、その動機は、上下関係抜きの人々間同士の配慮や思いやりにもとづく、政治とは別次元の社会機能につながる潤滑油的働きとも解釈できる。

つまり日本社会では、そういう個々人レベルでの働きが、「空気」とさえ呼ばれて、広くかつ緻密に存在している。そういう既存の働きを活用しない手はないだろうと思う。

私は、そんな日本式の社会特徴が人々レベルで自主的に積み上がるところに、何らかの新たな要素が生まれ、やがてはそれを世界が注目するようになる、そんな型破りの新展開が期待できるのではないかと見る。

 

こうした方法を《日本的エコロジカル社会》とでも呼んで、それが従来のシステムに代替する一法になりうると展望してはどうだろうか。むろん、両者が共存しても一向にかまわない。互いに矛盾するものではないだろう。

ともあれ、この一見目立ちにくい方法の要所は、各個人の確かな自覚と他者への配慮にもとづく、自主的で広範な行動にある。そしてそれがじわじわと定着してゆく時、目に見える効果が広く出現してくるのではないだろうか。

 

 

 

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