4月26日、オーストラリアのマルコム・ターンブル首相は、世界的注目を集めていた次世代潜水艦建造の発注先を、フランスの国営系造船会社DCNSに決定したことを発表しました。これにより、日本はドイツとともにその大事業の機会を失い、ことに、国を挙げての実に異例な獲得競争を展開してきた日本、ことに阿部政権にとって、おおきな痛手をこうむる結果となりました。
私見ながら、私はしかし、この結果を≪オーストラリア民主主義のおかげ≫と、あえて“たたえたい”と受け止めています。 詳細記事
4月26日、オーストラリアのマルコム・ターンブル首相は、世界的注目を集めていた次世代潜水艦建造の発注先を、フランスの国営系造船会社DCNSに決定したことを発表しました。これにより、日本はドイツとともにその大事業の機会を失い、ことに、国を挙げての実に異例な獲得競争を展開してきた日本、ことに阿部政権にとって、おおきな痛手をこうむる結果となりました。
私見ながら、私はしかし、この結果を≪オーストラリア民主主義のおかげ≫と、あえて“たたえたい”と受け止めています。 詳細記事
昨年10月の「戦後70周年《宣言》」に引き続き、もし私が日本の首相だったら、この際、ゼロ金利だのマイナス金利だのと姑息な回り道などしないで、いっそのこと、仁徳天皇ではありませんが、税金を――ゼロにするのはこの先のために残しておくとしても――、一斉に半分位に大減税してみるでしょう。 詳細記事
人間にはどうも、つい「行ったり来たり」してしまう、悪い癖があるようです。
この「悪い癖」とは、例えば民主主義といった、せっかく長い時間をかけて、社会のみんなで作ってきた「ルール」があるのに、それをその一線を越えて、つまり「ルール破り」をして、一気にドバっと将来を先取りしてみたい、そういう危ない癖のことでです。どうやらそこに、《狭義の政治》と《広義の政治》の分かれ目があるようです。 詳細記事
戦争という悪魔的巨大暴力に関して、それに伴って発生した、殺されたとか殺したとか、あるいは、被害者であるとか加害者であるとかという、けっして拭い去られてはならぬ事実のひとつ一つについては、その悲惨な当事者にしてみれば、それは降ってわいたにも等しい災厄です。まして、そんな苦しみを負わねばならぬ言われなぞ微塵もないにもかかわらず、その結末はまさしくそのように、痛々しくかつ逃れ難く、個々人の上にのし掛かっています。 詳細記事
もし私が日本の首相であったなら、先の戦後70周年の記念日には、「談話」などとしてではなく、日本国首相としての《宣言》として、以下のように、世界に向けて表明したのではないかと思います。 詳細記事
お金は、私たちが富と幸せを追求するにあたっての、価値の《白紙委任》です。
それは、その価値が、何により、どのように築かれ、何を求めているかは一切問わず、ただ、その大きさのみを数値化して扱います。その数字には、色も味も種類もなく、ただ数値的大小がすべてです。さらに、汗水たらした1,000であろうと、あぶく銭の1,000であろうと、1,000は1,000です。そこに個性なぞ一切なく、善悪すらも消え去ります。しかも、今日のような商品経済社会では、そうしたお金にたよらずには生活は不可能です。 詳細記事
いま、私が別掲で訳読を続けているブラッド・オルセンの二著書、Future Esoteric とModern Esoteric (邦訳タイトルはそれぞれ『「東西融合〈涅槃〉思想」の将来性 』と『現代の「東西融合〈涅槃〉思想」 』)に述べられている内容は、極めて広い領域におよんでいるばかりでなく、その意味も実に深遠です。
ことに私がその深遠さで注目する点は、世界平和の真の枠組みを考えるとすると、こういう立場しかないのではないか、と思われる彼の視点、つまり、人類の原点です。
一方、阿部政権がまんまと罠にはまるように迷い込んで行っている現日米同盟――田中宇の『多極化への捨て駒にされる日本』必読――が言う「世界平和」とは、アメリカの世界覇権の挽回のための方便にすぎません。 詳細記事
先日、あるブログを読んで、これほどに。「国」を守ろうとの意識をもっている国民は、世界のどこを捜しても、日本以外にはないのではないか、と確信する思いを持ちました。
そのブログとは、元自衛隊陸将補の池田整治氏の「地震等サバイバルのための「3・3・3の原則」」です。 詳細記事
いま、世界が必要なことは、敵をつくることなのだろうか。
地球がこれほど狭く、人の行き来は頻繁になる一方であり、しかも、ネットを通じれば、一人の発言が瞬時にして世界に伝わる時代というのに、どこをどう間違えて、そこまで角突き合わせなければならないのだろうか。 詳細記事