今度の総選挙で、自らの落選と最高顧問の責を負う「次世代の党」の壊滅的結果を受け、石原慎太郎が政治家としての引退を表明しました。曰く、心残りは「憲法を一文字も変えられなかった」。
そういう脈絡では、憲法を守る目的は、一部成功したかとは言えます。
しかし、憲法を守る戦いの本来は、それが私たちの社会をよくするためであったはずで、にもかかわらず、あらぬ迷路に陥っている、との感を深くしています。
今度の総選挙で、自らの落選と最高顧問の責を負う「次世代の党」の壊滅的結果を受け、石原慎太郎が政治家としての引退を表明しました。曰く、心残りは「憲法を一文字も変えられなかった」。
そういう脈絡では、憲法を守る目的は、一部成功したかとは言えます。
しかし、憲法を守る戦いの本来は、それが私たちの社会をよくするためであったはずで、にもかかわらず、あらぬ迷路に陥っている、との感を深くしています。
マレーシア航空機の「誤撃墜」や、中東地域での紛争の悲惨な泥沼化を見るにつけ、世界のキナ臭さはつるべ落としに、やむを得ない危急事態どころか、無益と言うことすらはばかれる、それが事実とは信じがたい事態へと迷い込んでいっています。
互いがそれぞれ、武装にぬかりなく往行すれば、それぞれが丸腰であるより、偶発、あるいは暴発――さらには軍事的策略――の事態の生じる頻度が高まるのは理の当然で、世界の理性はいまや、粗野な腕力の理屈に牛耳られているのも同然かの事態です。 詳細記事
この7月7日から10日の安部首相の訪豪は、日豪経済連携協定という難題に、ぎくしゃくしながら、かろうじて達した合意にもかかわらず、当地で報道される両国首相の様子は、その親密性がいかにも前面に押し出されているかに見えるものでした。
というのは、両国ともに、経済上の対立は大幅に妥協しても、ともあれその合意が優先されたもので、これまでの長年の大山鳴動がネズミ一匹の成果ほどのものでしかなく、その貿易上の利益は、双方にとっても、さほどの期待は持てない結果に収められました。
その一方、防衛上の連携の強化面はことに力点を置いて報告され、西太平洋における日豪の同盟関係の強化がことのほか重視されているかの様子が打ち出されています。
ことにオーストラリア側は、これまで自国開発してきた潜水艦建造を、共同研究開発との名で、日本製の潜水艦の使用に道を開くといった、従来路線の大転換――つまりオーストラリアの雇用をそれだけ失う――までするといったところまでの譲歩を見せています。というのは、今や軍事目的の潜水艦は原子力推進が世界の大勢ですが、日本とオーストラリアは、強い国内の反核世論(あるいは、そうした世論の背後に隠された米国の核拡散防止戦略)のため、いまだに従来型の内燃機関推進の潜水艦が前提となっています。こうした非核潜水艦という点では、すすんだ造船技術と合わせて、日本製の潜水艦の採用は確かな合理性は持っています。
こうしたい建前上の理由は付けられながらも、その内実は、真の国益が捻じ曲げられたり、少なくとも、矛盾をはらんだものであることは否定できません。
世界の警察官を自認してきたアメリカが、その国力の衰えにより、次第に世界くまない目配りから、重点を絞ったそれにへと移してきてる情勢にあって、西太平洋は、新たな覇権国、中国と直接に面と向かい合う領域です。
そうした東半球情勢にあって、日本とオーストラリアが、ともあれ米国の同盟国として足並みをそろえることは、ことに両国の政府が親米保守の路線に立つ者であるなら、おおいに現実的な選択であると言えましょう。
そういう意味では、日豪は、米国の番犬として、かってない「仲良し関係」にある様子が、しみじみとうかがえるところです。
第二次大戦末期の1945年、同じ枢軸国同士でありながら、原爆はなぜ、ドイツにも、イタリアにも投下されず、日本のみに対して使用されたのか、という疑問があります。 詳細記事
先にこのシリーズで、「『天皇の陰謀』の訳読を終えて」を書いて、日本の現代史における「ダブル・フィクション」に、私にとってのひとまずの節目を付けたとの見解を述べました。
しかしその後、ことにこの「憲法改正考」を掲載を続けながら、たしかに過去のミッシング・リンクの補充はできたものの、「フィクション」の時代はそれで終わっているわけではない、との思いを引きづってきています。
今回は、その新たな「フィクション」についての考察です。 詳細記事
憲法改正議論からはやや離れますが、むろん対外的に関連して、日本の「移民政策」についてです。
いってみれば、日本に一番定着しにくい政策議論の代表が「移民問題」でしょう。
昨年7月に、「憲法改正考(その5)再び孤立の道を歩むのか」を論じた際に、調査捕鯨をめぐって、少なくとも日本政府は、世界の情勢の中で孤立の道を進んでいるのではないかとの心配をのべ、それは今年3月末、国際司法裁判所での敗訴によって現実のものとなりました。
つまり、日本の政府に、世界情勢の「KY(空気読めない)」なところがあるのは明らかで、それの第二の実例が、この「移民問題」となるのではないかとの再度の“心配”です。