先にこのシリーズで、「『天皇の陰謀』の訳読を終えて」を書いて、日本の現代史における「ダブル・フィクション」に、私にとってのひとまずの節目を付けたとの見解を述べました。
しかしその後、ことにこの「憲法改正考」を掲載を続けながら、たしかに過去のミッシング・リンクの補充はできたものの、「フィクション」の時代はそれで終わっているわけではない、との思いを引きづってきています。
今回は、その新たな「フィクション」についての考察です。
先日、コンサルタントの仕事で、客先の若い世代のオージーと対話していた際、日本の核汚染の問題が話題となりました。彼によれば、友人の環境問題専門家が、日本の放射能汚染の度は、日本でいわれているように安全なものでは決してないと言っている、とのことでした。
それは私も同見解で、3年前の震災以来、ずっと不気味な気掛りとなってきていることです。
その一方、この「憲法改正問題」に関しては、中国政府のアグレッシブな態度のために、ことに「集団的防衛権」の問題が、いまやある種の“突破口”として活用され、必要な現実論として受け入れる社会的ムードが浸透しているように見受けられます。
確かに、中国政府の我が物顔な態度は、東南アジア諸国にとっても同様な反発を生んでおり、そういう意味での“反中連盟意識”が同諸国間に広がっています。そうした国際認識から、その具体的対処という面において、この「ムード」が巧みに醸成されて、「憲法改正問題」においての実務的なてこになってきています。
そこでですが、視界を広げて、先の「ダブル・フィクション」、「3・11の核汚染」、そしてこの「反中国意識の醸成」の全体を俯瞰してみると、その背後にある米国の思惑が見えてきます。すなわち、それを米国という一大国の覇権がからんだ意図として見ると、「ダブル・フィクション」の場合は、二十世紀前半の米国自身の台頭と日本の天皇制問題(これはその台頭に刃向った新興覇権国の野心の挫折・敗北問題だった)にまつわる「フィクション」の形成であり、「3・11核汚染問題」は、そうして確立した米国の覇権が目論むその核戦略である原発政策にからんだ「フィクション」であり、さらに、「反中連盟意識」という面では、その覇権力が衰退してゆく途上での、中国という新たな覇権国の勃興の野心に対処させる、同じく米国がらみの「フィクション」であるとの図が描けます。
だとすると、この後の二つの「フィクション」を合体させた「第二のダブル・フィクション」が、今日の日本を覆う新たな“うそ・つくろい”として形成されている情況が浮かび上がってきます。
言うまでもなく、こうした「フィクション」とは、何かを隠すためのものです。すなわち、第一のダブル・フィクションは、天皇制の限界と米国への属国化の意図を隠すものであり、第二のそれは、引き続く米国への属国化を東南アジア全体で強化させる意図を隠すものと言えましょう。
そのように見ると、中国は中国で、自国の内政の矛盾を隠すために外敵を必要とし、米国は米国で、自国の覇権を延命させるために反中・反ソの情勢を必要とし、日本は日本で、戦後自民党政権という親米保守勢力の支配力維持のために、核汚染隠ぺい・反中扇動の政策が必要である図柄がはっきりと浮かび上がってきます。
第一のダブル・フィクションは日本人に限っても、何百万という死をもたらしましたが、それに続くこの第二のダブル・フィクションは、おそらく今後の幾世代もの長期にわたり、日本人に同規模な死をもたらしてゆくものと予想されます。
それにしても、第一のそれが核爆発力で決定的ピリオッドをうち、第二のそれがまたしても核爆発にからんで起こっているとは、やはり、物理的パワーがものをいう、科学技術の果たす壊滅的支配力を改めて認識させられるとともに、それを実現させる各方面の学的専門家のモラルや人間性も問われるところです。そういう意味では、ノーベル賞もこうした隠ぺい作りの別格な「フィクション・メーカー」とも見れます。