二周目も四分の一を経過

「メタ」フェーズが舞台に

《「人生二周目」独想記》第16号

あとひと月ほどで78歳となる。アメリカでは、大統領をめぐって同世代の老人たちの確執が世界の耳目をさらっている。3億も人口があって、しかも確実に増加しているというのに、若い人材がいないはずはないと思うのだが、実に奇妙だ。

一方、日本は高齢化に歯止めがかからず、子育て環境は厳しく、人口は収縮期に入っている。しかも、かつてのお家芸の経済も活力を失って、「貧乏国」との自嘲めいた声さえ聞こえはじめている。

こうした内外、公私の環境にあって、私自身といえば、人生の「二周目」も、はや四分の一を終わらせ、陸上競技トラックで言えば、第二コーナーへと向かっている。まあ、二周目のゴールまでには届かないだろうが、半周ぐらいの展開がないわけではないだろう。

 

この二周目の最初の四分の一は、一周目からの、イメージ上も実質上も、切り替えに精力を費やさせられた。

何しろ初めてのことだし、参考とすべき先例もなくはないが特例的でモデルにはなりえず、そこで自分にしてみれば、それこそ海図なき航海に船出するしかなかった。

その結果、この最初の四分の一期の要とは、フィジカル生産から離脱後のその第二のステージについて、メタフィジカルな生産の役目があることに気付きかつその実行への準備期間となるものであった。

そうして入ってきているこの「メタ」のフェーズなのだが、ここでいう“メタ”とは、世界を席巻している、いわゆるガジェットあるいは技術装置としてのそれではなく、人間の持つ身心という二つの能力のうちの「心」にまつわる「メタ」である。つまり、商品として購入対象としてのメタでなく、あらかじめ私たちに備わっている潜在能力としてのメタである。つまり、そのためにとくにお金は必要でなく、大事なのは、その自らと潜在性に気付く感性である。

とはいっても、時期はもはや人生二周目の第二の四分の一においてのことである。フィジカルな働きはむろん頼りとならず、それでも期待されるのは、このメタな働きである。そしてその手法は、過去の体験に基づく情報量とそのアウトプットを資源とした、メタ生産の世界である。

 

そこでなのだが、極端にも聞こえるかもしれないが、認知症とは、そうしたフィジカルからメタフィジカルへとの切り替えが上手くゆかなかったからの“脱線症”ではないかと思う。言い換えれば、予防可能である。

すなわち、一つや二つの特定原因の結果による発症ではなく、もっと総合的な欠落の蓄積の所産である。そして、脳を支えるインフラとしての身体能力の酷使や衰えに無防備な結果、脳への資源供給に欠落が生じ、それによって、脳の働きをおかす一種の窒息状態をもたらしたからだ。

言い換えれば、そういう人生二周目期への連続的な長期的見通しの欠如がゆえに、身体と脳は切り離されて使用され、互いを相関させる発想自体を欠いて(不必要な低生産性に甘んじもして)、それぞれの能力欠損を、予防可能であるにもかかわらず、結果させた。それが、片や、フレイルな身体であり、他の、認知症へと達した脳である。

 

それをもし、一周目の時期より、身体と脳の相互関係を尊重したままの人生二周目を展望し、均衡した能力衰退に備えそして実行していたら、個人差はあるだろうが、それぞれの軟着陸をとげられたに違いないと思う。つまり、極端に片方のみの病弱に陥れさせられ、全生活の不能状態に至らせることはなかったのではないか。

言うなれば、バランスのとれた老化を実行しえてゆけば、その生活範囲は縮小してゆくだろうが、自活状態はそれなりに維持できてゆけただろう。

したがって、この「全生活の不能状態」がゆえに求められる、介護という今日不可欠な社会的職業も、その大半は、個々人の自己維持能力の範囲――次第な進行は示すだろうが――でこなしてゆけるはずのもので、それが決定的に必要となるのは、最後の最後の短い期間だけ、あるいは大きく少なくてすむ――そうしたいとの自己希望も含めて――ことなのではないかと思う。


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