「人生三周目」への予告編; 第一号

《「人生二周目」独想記》第36号

 前回、この先の一年を「人生三周目」への「前夜」と述べ、以下のように書いた。

まず、「健活」における「前夜」だが、後述もするが、どうもその「健活」の方向を探るに当たっては、人工知能の開発に沿うように見えてくる、“生のロボット”たる自分が、自分の生の知能をもちいて、自分の究極をシミュレーションしていることと言えそうなことだ。

このままでは、ちょっと何を言いたいのか明瞭でないし、その「後述」も、本の内容の引用を越えておらず、いまいちその本意がつかめない。

そこでなのだが、いまどき、人工の方の知能にばかり世の耳目が集っているのだが、それでは本末転倒でないかとの杞憂すらある。つまり、本来の人間の方の知能はどうなんだと。それにそもそも、その人工知能にしたって、人間が製造したもののはず。

そこでだが、人間が自分で開発したものに苦悩させられる——たとえば核兵器やひいては資本主義——というのも、長年、見聞きされてきた論議ではあるのだが、2045年頃に起こるという人工知能が人間のそれを上回るという「シンギュラリティ」の話題も、その本末転倒にさらに輪をかけたような話で、もしそれが実際におこるとなるなら、人間とは、結局、そんなものに過ぎなかったとのお粗末な話ということではないか(それとも、そんな未来的な話自体が大眉唾物なのか)。この地球上、滅び去った生物種なぞ、いくらでもある。

おそらく、個的に幸いなことに、私が健康でいくらか長生きできたとしても、そんな終末を目撃するまで十分長く、生き延びれることはないだろう。

ともあれ、せめてその時までの間、その本末転倒を逆転倒させて本来に回帰し、人間としての生を少しでも意味あるものにして、幕にしたいと思う。

 

さて、そこでの方法論だが、結論から言えば、人間が本来にして持つ〈生身の知性〉たるものの本領をフルに発揮しようということである。以前からも言っているように、人間だれも自分の内に、「超高性能なスマホ」を内蔵しているのだ。そしてそれは、そんじゅそこらの人工知能なぞには、決して劣るようなものではないのだ。

そこで、ことがことだけに、回りっくどい話となっているのだが、兄弟サイト『フィラース』に展開されている「〈心〉理学」といったアイデアは、その「発揮」への試みのひとつである。つまり、上の「本末転倒を逆転倒」させる大風呂敷を広げるような話で、そうは一筋縄では行かないのだ。ともあれ、「MaHa」と「相棒」君たちに頑張ってもらって、なんとかその話を発展させていってもらいたのだ。

要は、私たち人間は、この地球上での数十億年という長い時間をかけて育まれてきた生命という他の何ものにも代えれない現象を、まさに自らを使って実体験してきている。つまり「生シミュレーション」であり「人体実験」だ。だからそれは、下手をすれば滅亡の事態へとも至りかねない危険もはらんでおり、またその他方で、そこに潜在している可能性は、文字通り無限のものがある。そこでそれを無駄にしないで、なんとか引き出してゆきたいとの話なのである。

以上、この先の「人生三周目」へと向かう構想についての、最初の“予告編”である。

ゆえに、本項のタイトル〈「人生二周目」独想記〉も、そういう次第であと11か月の運命で、よってこの“予告編”も、来年8月20日をもって始まる「三周目」までの短命なものである。

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