「未必の故意」という法律用語がある。これは、犯罪の結果が生じる可能性を認識しながら、その犯罪性を認容している状態を言う。具体的には、行為者が自らの行為によって生じる可能性のある結果について、その結果が生じることを許容したり予期している状態のことである。
こうした法的用語に対し、ここに、人がとる選択においての、「未必の必然」という私の造語を提示してみたい。
つまりこの「未必の必然」とは、法律上の罪状を定義する用語としてではなく、いわば人生上の選択の結果が生じる可能性について、それを確信しながらも、外見上では賭けに出たようにも映る、そうした選択をとる根拠である。そしてここが肝心なのだが、その選択の結果、第三者には偶然としか考えられないものが、当の本人には「してやったり」と、その狙いをみごとに的中させる脳裏ロジックである。
他方、いわゆるニューサイエンスの分野で、シンクロニシティ(従来の見地ではありえない、他者との同時性の体験)やセレンディピティー(従来の見地では偶然で片付けられてしまう、必然的意味をもつ遭遇の体験)といった用語がある。
そこで、このシンクロニシティとセレンディピティーとを合体させた考えとして、どこかにあるそのシンクロニシティの存在を確信し、このセレンディピティーを実現させる選択行為を、「未必の必然」行為と呼んでみたい。
人は日常の生活に無数の選択を伴なわせているのだが、時に、そうした選択の中でも自分の将来を左右するにちがいない、あたかも一回きりの岐路といった、重大な選択に必ず遭遇する。そうした決定的な選択を決断しなければならない時、人はいったい、何を根拠としてそれを行えばよいのか。
平均的に言えば、いわゆる常識に基づいて、誰もが行っていそうな決定というのが、いわゆる「無難」な選択ということではある。
だが、中にはそうはできないものがある。何らかの理由で、そうした無難な選択には拠れない場合、それをどう扱えばよいのか。
そこで手掛かりとなるのがこの「未必の必然」という発想で、常識的には必然として捉えられないだろうその狙いなのだが、自分としてはその結果については、“直観的”にでも、確信できるものを採り上げることである。ただ、そのとば口にあってそのゴールがまだ未達成の段階にあっては、それは「未必の必然」としてその決断が待たれているのである。
私はいま、そうした「未必の必然」の実例を体験しつつある。
別稿の「想えば遠くまで来たもんだ」に述べているように、この愛媛の地で、その場違いな行為をしていることが、この「未必の必然」をまさに現実化する、思いもよらぬ機会となりそうなのだ。
それは、常識や通り一遍の理屈では導きだせない、もうひとつの選択や決断によっている。そのもうひとつを選ぶ根拠が、ここにいう「未必の必然」というものである。
そして、この「未必の必然」式の考慮を土台として到達した、いわばほとんど偶然でしかないような旅先が、実は、自分が模索してきた懸案への少なくともひとつの解答をもたらすものであるかのようなのだ。
ただし、それがどういうものなのか、まだそのほんの入り口が見えたばかりで、その全貌は見通せない。
この先、この地での、あるいはその後の発展を見ながら、それの全貌をつかんでみたいと思っている。
これは他者から見れば、運がいいとか、縁があったとか、勘がいい、といった表現で済まされる部類のことだろう。
だが、私の一周目の人生を足掛かりに、ほぼ二十年の二周目を経て、そのいくつかの発念と結果の体験に導かれて、この「未必の必然」といったロジックが成り立つことを発見してきた。そこで、それをさらに活用して、今後の人生の資源にしてゆきたいと思う。
以上、あたかも自分を犯罪行為へと惑わすごときの話なのだが、どうやらそれは、「人生三周目」予告をするに足る、私の手持ちの材料に新たな要素を加える、新デバイスとなりそうである。
【参照】この記事に関連して、『フィラース』に新記事が掲載されています。