日本人だけでも3百万の命を贖〔あがな〕って制定されたに等しい日本の平和憲法。なのに、その意味もくまぬ改正議論に加えて、すでに天皇制度にまつわる事実上のなし崩し的改変が、退位特例法の制定、施行によって実施されています。
以下の法規定のように、この特例法は不必要です。にも拘わらず、それが制定された狙いは、国民の目くらましにあります。その制定により、5月に新天皇が即位して新元号が始まり、この新年がまさに旧時代から新時代への変わり目であるかのごとき「妄想形成」が国をあげて実行されています。それほどに、国民の目をそらさなければならない、現時代を覆う薄暗さがあります。
日本国憲法第四条第二項
天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。同第五条皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には、前条第一項の規定を準用する。
皇室典範第十六条
天皇が成年に達しないときは、摂政を置く。天皇が、精神もしくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く
江戸幕府崩壊以来、天皇制は、国民を操る最強の政治的道具として利用されてきています。改めて言うまでもなく、それは「大東亜」戦争への神的動機づけを果たし、戦後は、一転してアメリカの属国と化した実態を隠す「万世一系」の「象徴」となってきました。
以下は、この正月2日、読者の一人から頂いたコメントです。こうした時代のまさに渦中にあって、時代の空々しさを、鋭い実感として伝えて下さっています。
先日、私は明仁が9条護憲を装い、5条(摂政)を踏みにじった、と短絡的に申しました〔後に掲載〕。正確には4条も無視し、皇室典範という法律をも無視した結果、憲法5条も無視したということになります。
憲法99条で、真っ先に憲法尊重、擁護の義務をうたわれている立場で、自らも、即位のとき、「国民とともに日本国憲法を守る」と言った者がです。
2016年8月の明仁のメッセージでは摂政制度を退ける明確な理由も示されないまま、多くのメディアでは「お気持ち」の方ばかりを尊重し、今日の体たらくに至ってしまいました。
ニュース解説者の中には、こんなことを言う人もいました。
「天皇が摂政を嫌がるのは、ご自身が昭和天皇の摂政を務めた時のことに懲りているからでしょうね。いくら摂政として懸命に職務努めても、国民からの敬意などは全部天皇の方へ行ってしまう」
中には、こんなのまでありました。明仁の(学習院の)お学友などという人物が、ニュース番組に登場し、「陛下から、お電話もらいました。『摂政は容認できん』とおっしゃっていた」などとバラす始末。
学習院では、憲法を教えないのでしょうね。この学友にしろ、解説者にしろ、全く憲法不在の空っぽ頭です。
憲法が現実に即していなければ、改正しようという、積極性も、真面目さもなく、うやむやなまま、無視してしまう、悪しき日本の体質です。憲法に限らず、何かにつけ、ありがちです。
今朝の報道では、昨日、一般参賀に訪れた人は、計15万人余り。
天皇の発言が、とどのつまり、「祈り」にすぎないことを何度も確認出来ているのに、「宗教だ!」と見抜けず、自らの血税で養い続け、嬉しがり、感激しまくり、九州あたりの遠方からでも駆けつけ、旗振る愚民が、都合15万余り。
国民の約0.11%はこれ、結構多すぎじゃありませんか。参賀にまではいかなくても、抵抗もなく、好意的に見る人が多ければこそ、こんな報道のし方になってしまうんでしょう。
また、昨年末に頂いたコメントは、次のようなものでした。
秋篠宮のヤブヘビ発言と、天皇夫婦の、九条護憲尊重。共に国民受けをねらった姑息な発言です。(そして、お察しのように、、国民はそれに取り込まれています)
皇室連中の本音は我身の保身に汲々なので、自分に不利なことは言いません。
秋篠宮は、皇室そのものの宗教臭に触れないし、天皇はその務めが困難ならば、摂政制度を採用すべし、という現憲法第5条を踏みにじった事実にも触れません。
本来なら、総理やそのブレーン、国会議員達が、待ったをかけるべきところを、ご存じのように、逆に明仁に追い風ふかせるような、アホな法律を作り、通してしまいました。(2017年の退位特例法)
アベがおバカすぎるので、彼らを制することができないばかりか、逆に利用されるのです。
国民がもっと賢くならなければ、いかんともなしがたし。
しばしば私はアチソン達の先見の明〔管理人注記〕に敬服します。
「日本の病気は、天皇がたとえ名前だけのものであったとしても、それが存在し続けるかぎり、治癒は不可能」という、あれです。
治癒不可能どころか、現実は更に複雑化、悪化しています。