TST Day 72(2022年6月8日〈水〉)
そろりそろりだが、はじりを復活中。寒いが快晴で、はじり日和。調子よければ6キロをとはじり始めた。超スローで体の温まるのをまっていると、なかなか悪くない感じ。3キロまで伸ばして折り返すが、足のトラブルはまったくでない。足先までほんのり温まって、かえって、ピッチが上がってくる。久々に、セーブをせずにはじれた。タイムは53分26秒。標準+5分26秒とまだまだお粗末。
TST Day 76(2022年6月12日〈日〉)
「ボディ・マインド・センタリング」や「ソマティック・ヨガ」についての記事を読む。身体活動と気付きをつなげて行く「旅」の同行者たちが、いろいろ居るようだ。つまり、理屈を一通りマスターし、それの実用化を図っているプラクティショナーたち。
記事;『【アメリカで注目の最新ヨガ】内的体験を重視する「ソマティック・ヨガ」の魅力とは』〔コピーあり〕
TST Day 77(2022年6月13日〈月〉)
「ソマティック・ヨガ」というのがある。太極拳とヨガのミックスのような、ゆっくりとした体の動きから、身体の経絡を最大化させる方法のようだ。
僕の運動は、もう少し活動的で、そうした経絡を通じて、身体能力、ひいては、人間能力を引き上げようとするものとなってきている。むろん、活動的すぎて、時に故障も引き起こすのだが、その故障を自己メンテするのも、人間能力を向上げる方法だ。
そういう一連の《実験》を通じて、より精巧な《ディテクター(検出器)》へと自分を磨いてゆくことが、どうやら僕にとっての究極的な《旅》のようだ。
そこには、「する」を通り過ぎて「なる」ことがゴールのようだ。あるいは、『なって行っている自分を感じる」ことが。
自然とは、人間という検出器を作り出し、かつ、それをいっそう高度にしていっているようだ。それを僕は、自然の《摂理》と呼ぶ。
TST Day 78(2022年6月14日〈火〉)
6キロのはじり、もう、右足の痛みは全く現れない。むしろ、フルーによるノドの症状で呼吸が苦しい。タイムは、53分35秒(標準プラス5分35秒)と、8日とほぼ変わらず。
TST Day 81(2022年6月17日〈金〉)
右足の故障回復を確かめるため、今日は8キロまで距離を延ばす。危な気は全くなく、むしろペースアップして付加をかける。タイムは1時間7分19秒(標準プラス3分19秒)と大幅に改善し、かつ、痛み全くなし。
TST Day 85(2022年6月20日〈月〉)
自分が行っていることが、ハラスメント(ことにセクハラ)かどうか、それは、そうとは気付かないなら、なおさら、ハラスメントに輪をかけることとなるだろう。
というのは、いま僕が試みている世代間交流での課題に、自分の書いた小説を設定したことが、それに当たるのではないかと案じられるためだ。
人と人との関係が出来上がっている時、社会にあってよくあるのが、何らかの基準をもって形成される、弱者と強者や上と下の関係である。そこに、よかれとして設定されるそこでの課題がある。
そうした基準を例にあげれば、家庭における子と親の関係、学校における生徒と教師の関係、職場における従業員と上司との関係などなど。そしてそこに設定される課題となれば、数限りない。
そうなのだが、そこに建て前としてある強弱関係には、その背後にある、まったく別の理由の、いかにも逆転した強弱関係を隠している。つまり、その弱者のはずがもつ、強者のはずへのあってはならない優越性。
よくある典型が、建前上の強弱は、社会が創り出している社会規範がゆえであり、裏側の強弱は、生物活動がもたらす生命規範がゆえ、というものだ。例をあげれば、男教授による女子学生へのセクハラや甘い点付け。
平たく言えば、社会は年期に特権を与え、生命は若さに特典を与える。
そういう関係の中で、一方的に片側のみ(多くの場合が社会的強者)が利益をえれば、それはハラスメントとなり、逆に、もし、社会的弱者がたくみにあらぬ利益を得れば、それは「大人をあやつる小悪魔」となる。
以上が正論だとするなら、社会的にも生物的にも、両者の強弱関係をバランスよく交換する関係は、理論的にはありうることとなるし、一種、未開拓の分野でもある。