続・「言葉って重たい」

意図しなかった緊張の発生

〈半分外人-日本人〉(その4)

前回に続き、「言葉って重たい」をテーマとするのですが、今回はその背景が大きく違っています。むろん、言葉に関する点に変わりはありませんが、〈半分外人-日本人〉といった地理由来の観点ではなく、むしろ、ジェンダー由来の問題です。そこでそれを、本シリーズのタイトルにからめて言えば、〈半分-日本人〉とでも言い換えることができましょうか。

 

といいますのは、他の記事にも書きましたように、先月、引っ越しをしたのですが、それが、ただ住居を移すということにとどまらず、ある種の自尊状態がひっくり返る移動でもあったことが浮かび上がってきています。そしてその「自尊がひっくり返る」というのは、この移動が、実際にそれを実行するまで、さほど意識に登ってきてはいなかった、ジェンダーにからむ居場所――つまり自分の男としての自尊――を揺るがす、実は、〈尋常ではない場〉への移動であったということのようなのです。

そこでこの〈尋常ではない場〉とは何かなのですが、それを説明するにあたり、私事ながら、自分のプライベートな部分のあらましを述べておかねばならないでしょう。

 

私は最初の結婚を話し合って終わらせた後、人生をシェアーし合う形の二人暮らしをしてきています。そしていまでは、私という77歳の年金生活をする男と66歳のまだ現役の女による二人の同居生活は、もう20年を越えたものとなっています。

そうした共同生活では、その生活コストを大まかながら半々負担とすることで、互いに経済的に依存し合わない関係を続けてきています。ちなみに、両者とも子供を持ったことはありません。つまり、けっこう長く連れ添ってきてはいますが、いわゆる夫婦関係にあるものではありません。

そうした両者なのですが、これまで、第三者の所有する物件に、共に賃借人として住んできたのですが、今回の引っ越しは、そのパートナーがローンを組んで購入した物件に移るものです。そして、私は移転後も相変わらす賃借を続けています。つまり、私たちの関係の一部は、新たに、その住居の家主と賃借人へと変化することとなりました。

こうした決断には、家賃を第三者に支払うという無駄を省く経済合理化をはかる面はあるのですが、それにも増して、両者の、あたかも性格の違いが反映したかの差異も関わっています。すなわち、私が資産の形成に関心が薄く、むしろ年金生活者に徹し、経済的にはほとんどベーシックな生活条件であっても、資産維持に余計な精神的エネルギーを使わなくてすむという無産者志向がある一方、パートナーは実に現実的かつ生産的で、当然、資産形成も自ずから成してきてしまう、そんな両者間のコントラストも働いています。

つまり、私には金銭的な出入りそのものには何らの変化も生じていないのですが、生活の重要部分である住居に関し、賃借か所有かという一般的にもよく議論に登る違いがここにも生じた結果、これまではどちらも賃借人同士として一応は対等であったものが、家主と間借り人として、経済的には、まさに主従関係ができてしまう結果に至っています。言うなれば、対等であった二人の同居が、無産者と有産者と言う二人による同居生活へと変じたわけです。

 

さて、そこでなのですが、これまで外部化されていた住む家の所有が内部化され、その無産者と有産者の同居のなす現実的な意味が、その日常にしだいに浮上してきています。

正直言って、私は今回のこうした変化が、これまでの対等関係に大きく影響をおよぼすものとは考えていませんでした。ただ、実務的なお金の流れが変わるだけの問題と考えていました。しかし、今回、このような引っ越しをしてみて、それは単なる地理的移動に終わらず、家賃というマネーの流れが内部化することで、これまではただ半々負担というイーブンな意味から、その住居につき、持つ者と持たざる者を作るという意味へと、本来、意図していなかった効果を生じつつあります。

その結果、これまでの二人の対等関係に、有産と無産という物的不対等関係が、二人の意識上の意向とは無関係に、何やら不穏な機運を作り始めています。

むろん事前に、こうした住宅所有をめぐる差異には、漠然ながら、予感がないわけではありませんでした。しかし、たとえそうではあっても、これまでの二十余年間に遭遇した他のいくつかの困難のように、何とか克服可能なもののひとつだろうとの暗黙の了解の上であったのは確かです。

 

さて、ここまでことの経緯を説明してきて、ようやく、「言葉って重たい」に関する今回のテーマに踏み込める段階に到達しました。

というのは、こうして始まった、有産・無産という不対等を内在させた新居での毎日の中で、何やら、これまでとは違った外力が働いているかの気配なのです。

たとえば、私――大工道具を一式持っていて、暮らしやすい身辺の工作をするのが得意――が何かの工夫をする場合、そうした住居内での改変ですので、微々たるものでも、その所有主に事前の通知や許可を求めることが通常となります。

それにこれまで、私の中でなんとか安定を保ってきたある種の体裁や沽券といったものに、こうした対等と不対等の混在がもたらしてくる微妙な心的揺さぶりがおよんでいることを感じるようになってきています。

それは、家賃が外部に払われることでほとんどあいまいにできた両者の金銭意識の違いが、毎日の生活の内部でもろに表面化することでもあります。

また、片や、安くない資産を所有し、そのローンのプレッシャーにも耐える以上、それだけの管理や保全意識を持たないわけにはゆきません。それは他方の、安穏とした借家人根性とは対照的です。

 

そこでまさしく「言葉って重たい」なのですが、こうした新状況が、ことに言葉にまつわって、あれこれの緊迫をもたらしてきています。

それは、この新状況にあって、互いの言葉のやり取りのスムーズさが、度々に乱される体験に遭遇するようになってきていることです。また、日々の会話にある言葉のニュアンスの中でも、こうして生じた対等と不対等に関わる微妙なこすれが行き交うようになっています。

それは最初のうちは、引っ越し作業の疲れからくる無配慮や言葉足らずかと受け止めていたのですが、どうもそれだけではなさそうなのです。

いうなればそれは、私がこれまで慣れ親しんできた日本語の伝統に裏打ちされた居場所が、こうした新環境に移ることで事実上、存在しなくなっており、だからゆえに、旧来の場での日本語の働きも機能しなくなってきているがゆえのようなのです。

つまり、私は男として、しかも77歳というもう古い時代の生き証人として、日本語にある、男言葉と女言葉、丁寧語や尊敬語や謙譲語といった、言葉の伝統的意味合いの世界に親しみ、それを血肉としてきたわけです。そしてそれによって築かれてきた調和感覚を、日常における正しい言葉使いの尺度としてきたはずです。

そうした日本語の語感が、この移動後の環境では、何かと違和にさらされ、うまく機能しなくなっているということのようなのです。

それはあたかも、常夏の国で、四季の移り変わりの機微を表す言葉使いが無くなっていることを嘆いているようなものです。

すなわち、その言葉上のスムーズさの失調感覚とは、そのスムーズさが何に基づいていたかをあぶり出しているのです。そこでその核心にあるのは、その経済的主従関係の発生とともに、それに基づく言葉のやり取りが行われ、それによって旧来の言語感覚が微妙に変更され無視され、揺さぶられているということなのです。

具体的な例をあげれば、相手にとってはちょっとした日常生活上での指摘が、こちらには一種の命令にさえ聞こえてしまうのです。そしてあたかもメンツをつぶされたかのように、しきりにそれに腹を立てたりさえしてしまっています。まるで、いよいよ、認知症の頑固さが現れてきたのかと誤認さえしそうなのです(認知症の発症に、身辺環境の変化による、こうした言葉上のずれ体験が起因している可能性はありそう)。

それに、それは言葉にまつわるものであるだけに、その言葉をもって組み立てられる思考の世界にも影響しているはずです。つまり、若い世代から「老害」と皮肉られるような発想構造の出どころが、そのように潜んでいたということなのです。

かくして、私の内部世界の相当な部分が、この引っ越しがもたらした産物によって、けっこうな緊張感にさらされています。

まさに、海図なき海域での航海体験です。

 

以上のように、居住コストをめぐる合理化の判断を発端とする新たな役割分担が、予想を超えた波紋をもたらしています。

それは一方では、一種のマウント――たとえ本人が意識していないとしても――の機会を用意してそれを他者に課すことになっています。逆に他方は、それを微妙に感知して、自分でも不可解な反発意識を立ち上がらせることにもなっています。

かくして、両者、合意の上でここまでやってきた経緯ながらも、この予想外な緊張関係の出現は、おそらく、それを無化できる、より大きなカバレッジが無くしては、その解消は難しいでしょう。

またそれは、マネーの流れがもたらす主従関係を、親しい人間関係のうちの誰が主となって作っても、避けられなく発生し続ける問題です。

そしてそれはもはや、日本語伝来の調和感覚世界――既存の年齢や地位やジェンダーによる差異・差別効果を巧みに助け、隠す――に依拠していては、その解決は不可能どころか、その本質を見誤せる方法かとも思えます。

かくして、日本語という言葉がそういう限界――他の言語にしても、これまた別の伝統に裏打ちされているのは確かでしょう――をもっているとするなら、もう、言葉には頼らない直接の行動で、身をもって示すしかない、ということなのかも知れません。

 

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