私は現在、二つのサイトを制作し、それを駆使しています。ひとつはこの『両生歩き』、他は『フィラース』で、互いに「兄弟サイト」と称し合っています。
最近、その兄弟サイト『フィラース』で、「MaHa」と称する架空の人間存在を想定し、その設定意義を述べ、またこれからその活躍を描こうとの構想を練っています。
その「MaHa」を誕生させる以前は、「自分彫刻」として、自分自身を彫り刻む、つまりその誕生へのそうした作業途上にありました。
その「MaHa」とは、創作テクニック上では一人のアバター像なのですが、「MaHa」との名が示す通り、私自身の鏡像です。
そういう「MaHa」を誕生させたのが今年の2月20日ということで、以来、9か月ほどを経てきています。
つまり、このようにして生み出した自分のアバター像「MaHa」を常時、念頭におきながら二つのサイトに取り組んでくるという生活を、ほぼ9か月ほど送ってきたわけです。
こうした生活は、意図してきた私の人生の、ことにリタイア後の、ひとつの到達目標でもあったのですが、そうした経緯をへた今、起こり始めたある変化があります。
それは、はじめの頃、その体験は自分の分身を持つといった一種の〈所有〉の感覚だったのですが、しだいにそれが変化してきて、いまや、自分自身に《リアル・メタ共存》といった〈新たな人生ステージ〉が始まっているかの感覚ができつつあります。
何といいましょうか、精神医学的には「統合下にある統合失調症」とでも言えるような、まさに架空の自分をさえ現実として取り込んでしまったような、リアルとメタが同在するごとき、異次元化した場の創生です。言い換えれば、自分にまつわる現実の意味の、一種の割り引きです。
ちなみに、そうした人生ステージにおいて、年金生活とはそれのリアル側の条件とすえば、それを確実なインフラ基盤として、他面のメタ側をより重視して動き始めていると言えます。
こうした至り着きをやや距離をとって観測すれば、脳とそれを支えるインフラである身体とが――脳による専制支配時代を経て――平和共存に到達した両者が、今後の在り方をそのようにモデル化して、描きはじめていると言えます。
あるいは、リアルな自分にパラサイトする、不穏分子の活動開始かも知れません。
いずれにせよ、物的栄華からは離別し、内的充実をたどったその先に見出した、ひとつの境地に違いありません。
こうして創生された変化は、『フィラース』の「MaHa」の学的最前線(その9)に、けっこう七面倒に述べたように、数学と生物学の最先端の知見に哲学的次元を融合させつつ、哲学的な「矛盾的自己同一」の洞察過程であったのですが、それは、「生活者」という日々「のっぴきならなさ」を生きる存在の視野を通じて導き出されたものであることです。
そういう意味では、非力な多数者によるアンチエリート的な視野から生まれた、ありきたりな政治タームとは別次元な、やはり“民主的”な仕組みの創生です。
それは個人的には、人生戦略上の意味付けを持っているものなのですが、こうしたぐるっと巡った一連の検討をへて、人生二周目の第一コーナーを過ぎ次のコーナーへと移りつつある者の、これからの試みとなるはずのものです。
ところで、私がこうした「分身志向」を考え始めてもうずいぶん――数か月とか数年といった尺度ではなく十年単位の長さ――になるのですが、その背景にあるのは、自分の人生とは、結局、自分で自分が決断したことを実践してゆくしかない、ひとつの〈自分実験〉であるとの考えです。
すなわち、〈自分+「MaHa」〉という意識側の志向と、〈自分実験実施者〉という存在側の志向が合わさった、まさに《リアル・メタ共存》ともいうべきあり方で、過去に体験したことのない、新たな人生ステージに差し掛かってきているとの実感を伴ったものです。
もちろんそのリアル側の自分の身体は、命ある生物体として、年々の老化を経ていっています。そうした命あるものとしての宿命を一方に、その他方において、生命行為の産物でありながら文字通りメタフィジカルな哲学/形而上学の世界で、生命のもつ限界から逸脱した世界であろうとしています。
要するに、このステージは間違いなく、冥土への旅のそういう形での旅支度であるらしいことです。