「人生三周目」に向けて、そのグランド構想を考えている。
そして至りそうな結論から述べれば、こういうことになるのではないだろうか。
人間は、地球上で自然による40億年を要して生じた産物である生命体のひとつで、それ以上でもそれ以下でもない。そうした人間にとっての基盤は、限りなき宇宙を含む、その大自然環境に根差すことから外れてはあり得ない。その一方、時代を席巻するAIがその人間を超越するシンギュラリティ(特異点)をもたらすというが、それでもそれは、そういう人間の作り出したAI技術によるものとの限界は厳として存在するはずだ。つまり人間は、AIによるシンギュラリティという“自作”の新たな人間性をかかえた存在へと変質はするだろうが、それでもその人間性の基盤は、限りなき自然環境に置かれていればこそ開かれていることに変わりはない。
AIの目覚ましい効用がからんだ「シンギュラリティ」という人間社会の変換が喧伝されている。そうした変換が到来すると言うのなら、すでに人間は、資本主義経済という〈経済的シンギュラリティ〉を経験してきているわけで、それに今後、この〈AI的シンギュラリティ〉が加わって、それがさらなる新次元現実となって定着されてゆくということなのだろう。
そうした人間社会の新時代を前に「グランド構想」を模索しているのだが、これまでの資本主義経済の環境のもとに、この私の現実の人生が特異に築かれてきたことは間違いない。そして、その人生から私が見出した究極の教訓は、「理想と現実」という〈二重構造〉の桎梏〔しっこく〕から、「二周目」を経てようやく、その総体が見えてきたということだ。
ここに、経験上の主認識をそのように呼び起こした上で、今回の「話の居酒屋」シリーズの、「二人のガイド」と題した対話を取り上げてみる。そしてそのモチーフが、「老若コラボ」との言葉で結ばれていることに注目したい。つまり、その厳冬期登山にまつわって期せずして生まれた、「老若」間コミュニケーションの色彩あふれる意味である。
つまり「老若コラボ」とは、世代間の「協働」とも「共闘」とも言っていい、互いに違った経験や特性を、それぞれの立ち場にタコツボのように密閉し固執するのではなく、胸襟を開いてそれぞれの持ち味を共に交換し合うという、〈複眼視野〉に価値を見出そうとする試みのことだ。
そこでだが、この〈複眼視野〉の試みを別の角度から見れば、その実際の体験は、異世代間を行き来するタイムトラベルとも呼べる、いわば〈新時代の旅〉を見出していることでもある。つまるところ、すでに人類は、地理的移動の時代を満喫し終え、〈時空間上の移動〉を目指し始めているということだ。その視野で見れば、超資産家の火星移住計画も、その地理的移動の超極端な例なのだろう。
かくして、世代が異なる人たちが、予断を抜きに心を開いて接し会えば、時間の壁を越えて、時には後に続く世代が先達が踏んだ遠回りを繰り返さないで済むといった効果すらを含めて、いっそう進んだ道を歩みうるという、じつに有意義な成果すらもたらすだろうと推察される。
さらに私は、こうした〈複眼視野〉がもたらす未来的視界を、旧来の「エリート力」志向とは対極をなす、「ピープル力」の出どころとして注目したい。
加えてそれは、民主主義の崩壊とさえ指摘される昨今の危ない世界的趨勢を修正する、新たな創生の可能性を託せる方向でもあるだろう。
そのような方向付けを「三周目」に備えようとするのは、少なくとも自分の「一周目」において身に染みた上記〈二重構造〉の体験があるがゆえ、それがまたしても今後の時代においても繰り返されないようにと願う、先に歩んだ者からの伝言でもあるだろう。つまり、その新時代にあっても、食う苦悩と生きる意義の二者が容易には両立しえない、そんな過去の苦い生の現実を、人類はまたしても繰り返すのかという〈AI的シンギュラリティ〉の時代にむけた課題でもあるだろう。
そこで、その繰り返しを避けることを目指そうとするならば、そこに一つの有効性を持ち込む方法として、老若それぞれの世代が、自分に課されあるいは許されている過不足を互いにシェアーし合うことを手法とする、その「老若コラボ」との取り組みが注目される。
この「過不足融通」関係――あるいは単に「譲り合い」とも表現できる――こそ、生命が拠って立つ〈自己組織化〉の働きを、そうした「タイムトラベル」を通じて人間社会スケールで実現する、相互協働の効用を根付かせるものと言えよう。
もし、来たる〈AI的シンギュラリティ〉の時代に、またしても相互のタコツボ化を常態としてしまうのならば、その醜さはいったい何がゆえなのであろうか。
一例だが、たとえば年金制度をめぐって、その拠出と受給の関係を、老若間を分断してあたかも敵味方関係のごとくにすり替える論法――まさに分断支配のたくらみ――など、その制度実施失敗をそう責任逃れする、その「醜さ」の典型と言えるだろう。
そのような「醜さ」がまたしても繰り返される時代は、残念なことに、私にとっての「三周目」どころか、その先のそのまた先においても、大いにありえる事態だろう。
だからこそ、「老若コラボ」あるいは「老若共闘」という、先の世代がなめた教訓を引き継いでゆく足掛かりが、意味をなしてくるはずと思われる。