インターネットの普及とともに登場した「ウィキペディア」が、かつて“資産”の象徴だった百科事典を完膚なきまでに駆逐したように、AIの登場は「博識」という人間資質――いわば“人間百科事典”――を、”民主化”させようとしている。つまり、それが誰であろうと、いったんスマホ片手にAIへ問いかければ、これまで限られた人たちだけが持っていた知の優位性は、たちどころに大衆化される。よって、富の偏在が社会的階級の根源となっていた既成の事実に、この知の民主化が、単なる理念としての平等ではなく、知にまつわる現実的基盤としての平等をもたらし、”大衆革命”をいっきょに身近に引き寄せる効果を持つ。百科事典を絶滅させた「ウィキ効果」に引き続く、あるいはそれにとどまらない現象として、今度は、人間社会の〈二重構造〉を揺らがしてゆくに違いない。 詳細記事
AI的メルヘン
その知の平準化効果
「人生二周目」独想記 第41号
〈AI的リアリティ〉の登場
「人生二周目」独想記 第40号

Copilotの制作によるイメージ .
AIとのやり取りをしながら、ある鼻持ちならない感覚にとらわれた。あるいは、こちらの生身な在りようでは太刀打ちできない、あたかも底なしの世界に引き込まれてゆくような、そのまさに人間離れしたAI側の能力に圧倒される気配である。その場ではもう、こちらにはただ、スイッチを切るしか手は残されていない。これって、これまでの「二重構造」の上塗りじゃないのか。注意しなければならないのは、AIはまるで自分が人間であるかのような顔をして、しかも揺るぎない確信をもって語ってくることだ。これが言われている「シンギュラリティ(特異点)」の第一歩なのかも知れない。 詳細記事
大江健三郎のさらに向こう
「人生二周目」独想記 第39号
今回の帰国で、大江の郷里、内子町大瀬を訪ねつつ、同時並行して彼の小説『万延元年のフットボール』を読んでいた(前号参照)。そうした彼の生誕の地に実際に入り込み、かつ、その彼による作品――そこを舞台にしたその奇態な物語――の鑑賞という現実とフィクションにまたがる二重な体験をしてみることで、ノーベル文学賞に至るその世界的才能を生んだ環境が何かを探った。そして、同賞という異論のない成果を遂げながら、逆にそこに、あるいはそれだからこそ、その職業的創作者という生き方に、一種の仕組み上がった閉合された世界を見るという、思わぬ発見をしていた。
「億人億色」
《「人生二周目」独想記》第37号
アメリカで「トラッドワイフ」という新語があるという。トラディショナル・ワイフの略で、ここのところ、アメリカ社会に生じているひとつの流れらしい。これを日本語にすれば「専業主婦回帰」とでもなりそうで、それを報じる日経の見出しも、「仕事と家事両立に疲れ伝統回帰」となっている。
そういうことなら、「専業主“夫”」の私の場合は「トラッドハズ」か、との思いが頭をよぎった。 詳細記事
「人生三周目」への予告編; 第一号
《「人生二周目」独想記》第36号
前回、この先の一年を「人生三周目」への「前夜」と述べ、以下のように書いた。
まず、「健活」における「前夜」だが、後述もするが、どうもその「健活」の方向を探るに当たっては、人工知能の開発に沿うように見えてくる、“生のロボット”たる自分が、自分の生の知能をもちいて、自分の究極をシミュレーションしていることと言えそうなことだ。
このままでは、ちょっと何を言いたいのか明瞭でないし、その「後述」も、本の内容の引用を越えておらず、いまいちその本意がつかめない。 詳細記事
「3周目」前夜
《「人生二周目」独想記》第35号
先の記事「人生3周目は傘寿から」に書いたのだが、この79歳の一年間は、傘寿をもって始まる三周目の人生の準備期間となりそうで、その意味で、「三周目前夜」と呼べる。その少々長い「前夜」にあって、にわかに見え始めている視野がある。それは、社会的には、いよいよ登場した第四の産業革命と呼ばれるAIすなわち人工知能であり、他方、個人的には「健活」の中身と行方である。それを今号では、いつもの居酒屋談義を借りた「これには驚かされた」でそのAIの可能性に触れ、本稿では、自分の身心資源の問題として、この「健活」を考えてみたい。 詳細記事
「未来邂逅」というビジョン
《「人生二周目」独想記》第34号
〈旅心〉という「不思議」の源泉
《「人生二周目」独想記》第33号
居酒屋談35号そして本独想記32号に引き続いて、中央アジアの旅で体験した「不思議な遭遇」について考えている。
そしてその謎を解く鍵が、むしろ、旅をすること自体にあるのではないかと推測している。
そこで仮説を立てるのだが、旅をするのとは反対に、定住したり、国といった固定した枠内に安住したりすることが、人間にとっては、むしろ“不自然なこと”と断言するのは無理としても、大きく片寄ったものであるのではないだろうか。
そして、そうしたノーマッドな在り方が示唆することは、この定住とか国民とかとの、今日のほとんど全地球に行き渡った常態こそ、生命の本来の在り方に“背いている”とするのはこれまた行き過ぎとしても、大きく片側へと振れているものではないだろうか。

遠い過去には、旅を日常とする生業があった
風穴を開けたのは誰
《「人生二周目」独想記》第32号
これはひとりの男の私見だが、いったん男としての沽券を捨てると、この世のもやが晴れるように出現する、見通しのよい視界がえられる。
それはたとえば、女のもつ、正直言って男には到底なしとげえない、適応能力が成す風景である。
もっと言えば、世界のどこであろうと、そこを根城に棲みついてしまえる、根源的な生命力だ。 詳細記事
健康長じてのこの楽しみ
《「人生二周目」独想記》第31号
「人のふんどしで相撲をとる」という諺がある。
いま、中央アジアの旅を始めて、はや十数日となっているのだが、私は、この旅とは正直言って、まさに、この諺の通りだなと思っている。 詳細記事