Day 1,280+43(11月7日〈火〉)
これを「貧乏人根性」とすべきなのか、それとも「健康な向上心」とすべきなのか、順調に健康状態が回復されてくるにつれ、ある種の空無感にとらわれています。確かに、クモ膜下出血、Subdural Hematoma(以下「SDH」)、に関わる一連の身体異常は、強力な脱出志向を引き起こし、それに全力をあげるという効用をもたらしていました。その結果として至りつつある達成そして平穏状態は、それに安住していればよいものを、新たな志向を必要としています。あたかも薬を欠いた中毒患者のように。考えようによっては、この安穏温暖なぬるま湯の方が、もっと危険な潜在命取りなのかも知れません。
Day 1,280+48(11月12日〈日〉)
このSDH体験で考えさせられていることに、介護される老人となった場合のことがあります。それはかなり確実にそう遠くない将来におこりうることであり、今回はそれをまさに自分の現在のこととして考えさせられました。その事態を端的に表現すれば、「役立たずとなった老人は誰のものか」であり、それはまさしく、誰のものでもなく、「自分のもの」ということでした。
Day 1,280+49(11月13日〈月〉)
回復が進むにつれ、今回のSDH体験が意味していること、そしてそれが示唆していることが次第に浮かび上ってきています。それは極めて現実的な側面から、それこそSF論議に近いMETA面まで、考えさせられることは様々、多次元的です。
ことに、健康についての現実面では、そうでなくとも年齢によるリスクが増している時に、酒にからんでミスをおかし、実に危ない淵をかすってきました。それの意味する現実的考慮事項は多々あります。結果として生還には至ったものの、周囲にはそれ相応の波紋をもたらしました。そして、この周囲との関係問題がこれまた意味深長です。それは金銭の問題から人心の問題まで、俗にいう“苦労”とはそれらのことなのでしょう。
そうなのですが、人生というものは、石橋を叩いて渡っていれば、実に退屈至極なことこの上ありません。
その興味とリスクの間の絶妙な接線上を歩く、これがまた難しい。まさに、賢明さと愚かさは、紙一重です。人生の極みとは、そのことなのでしょう。
いままでも、確かに、生存と面白味のジレンマではいろいろ勝負させられてきましたが、それもどこか抽象的でした。なにせ、十分若く、健康や命の問題といっても、たぶんにまだ余裕がありました。それが、70を越えてのそういうジレンマとの勝負は、今回のように、確かに、実際の命取りにもなりかねない危ないゲームとなってきています。
どうやら、そのあたりの境界線をこうして越えつつあるのでしょう。そして、本当の海図なき水域に入ってきているということのようです。
ともあれ、命という動力源を元手としつつ、それを無駄に使わず、最大の燃費を引きだし、極みまでもの成果を追い求める。くわえて、その動力源も、単なる古典科学的燃焼反応で駆動しているのではなさそうです。これは新たな極みでもあります。
Day 1,280+50(11月14日〈火〉)
先に、「健康追求を仕事にする、それもありか」といったことを考えたことがあった。しかし、それではどうもリタイア生活者の道楽風で、それこそ「悠々自適」の新バージョンにすぎないのではないかと、居心地がよくありませんでした。
だが、今回のSDH体験は、「健康」と、あえて言う「冒険」との、同時追求という領域があることを教えてくれました。つまり健康とはそうであればそれでよいというものではない。そうであって、さらに、それを何に使うのか、が必要だということです。あるいは、健康と冒険は相容れない二つの傾向なのですが、そうしたその両者を両輪とする働きもあるということです。これは、「両方を選ぶ二者択一」の新テーマかも知れません。
Day 1,280+51(11月15日〈水〉)
今回の手術と入院で、旅行の全予約をキャンセルせざるを得なかった件に関し、その旅行保険申請をしているのですが、いかにも醜悪な問題が降りかかってきています。それは、医学的根拠を得るための医師の診断書が必要なのですが、医師がそれを拒んでいるのです。どうもその医師は、私が頭痛を訴えた際、その兆候を軽視し、さらなる精密検査を指示しなかった件で、自分にその責任がおよんでくることをおそれての行動らしい。そして、その日の診察記録を消し、また、入院の直前にかかった別の医師(彼はただちの精密検査を指示)にその書類作成を押し付けようとしています。なんとも、嫌悪をもよおす降ってわいた災難となっています。
このオーストラリアの医療システムの底辺――つまり一番身近な――のGP医者の質の低さは、オーストラリア医療界の大きな問題です。
Day 1,280+53(11月17日〈金〉)
今度の病院生活から退院の際、脳の機能回復を診てくれていたセラピストから、退院後も脳機能の訓練のためのゲームを続けるよう勧められました。それらはネット上のアプリとなっていて、無料のものから有料のものまで数種ありました。
その中で、有料の米国製(日本語版あり)のものを続けているのですが、なかなか良くできています。
最初は、ゲームなんてと、見下していたのですが、けっこう面白くて、のめり込まされるものもあって、ほぼ日課となっています。
ことにこのアプリには、25種ほどのゲームが機能別に数グループに分かれており、各々の点数が集計され、進歩の度合いが判るうえに、このアプリの使用者(世界中で8500万人もいるという)の平均点が、年齢別ゾーンで出されていて、自分の年齢での水準も知ることができます。
右図は、そのゲームの現在のスコアです。最初の「認知領域」とは総合点で、僕はどうやら、世界中の70-74歳者の内の66%のところに居るようです。減退が気になっていた記憶力は70%でそれほど悪くなく、意外なのが柔軟性の35%で、それほど頑固じじいになっているようです。
ちなみに、このゲームはLumosityと言い、そのサイトは以下です。
https://www.lumosity.com/landing_pages/976
自分のおつむの具合を客観的に確かめるのに、有用なアプリです。
なお、このアプリの料金は、年48豪ドル(5,600円)でした。
Day 1,280+56(11月20日〈月〉)
昨日の新聞(日経ネット日曜版)で、脳卒中の後遺症による手足のマヒを、脳科学を応用してリハビリするという「スマートリハビリ」の記事を読みました。それですかさず思い出したのが、先の入院中のひとシーンで、動かなくなった右手足を目の当たりにして、それは受け入れなけらばならない現実か、それとも改善の余地のある通過点かと、煩悶していました。
結果的に今の私は、その後者、しかもほぼ完ぺきな回復を得ています。
あの煩悶の中で、もし私が、常識のように言われていた「一度死んだ脳細胞は再生しない」という情報を信じてしまっていれば、その結果は今のものとは大いに違ったものとなっていた可能性があります。
上の記事の要所は、死んだ運動機能を回復させるため、脳波やイメージなどの様々な刺激を外的に脳に与えることなのですが、そういう意味では、私はあの時、そうした刺激を自分で与えていたのは確かです。ただ、それがどこまで効果的だったのか、それとももともと症状が軽かったのか、その判定は困難です。ただ、その後の回復過程で、担当医やセラピストがその速さに注目していたのは確かでした。
私のこうした体験の限りでは(私は決して精神主義者ではないですが)、その「スマートリハビリ」のアイデアには、患者内部からの“外的”刺激という分野も考えられるのではないかと思えます。
Day 1,280+57(11月21日〈火〉)
トレーニングをかねて、あえて遠いショッピングセンターまで、片道4キロを徒歩で往復して買い物に。坂道も以前のペースで歩けて、回復にいっそう自信がつく。