「老若共闘」実現へ一歩

《四分の三プロジェクト》 コラボ段階(その12)

3QsP Day 262(2022年4月10日〈日〉)

老若共闘」とは時代ズレした何ともいかめしい言葉なのだが、ともあれ、その当初の構想レベルのものが、にわかに、実行動レベルのものに実り始めてきた。それは、僕を「ロールモデル〔お手本〕」と見ているらしい若い人が現れてきたということに端を発することなのだが、内心、「モデル」とはなんとも面はゆいことで、戸惑わされてもいる。

ともあれ、これを有難いことと受け止め、いよいよこの「老若共闘」を前に進ませようと思うのだが、こういう事態を、漠然とはしたものだが、すでに準備してきていたところはある。

というのは、僕がこのサイトに4部構成を設置し、違った角度からの記事を載せているその内容は、あくまでも自己分析のためという狙いが主だが、もしやするとの気分から、いつか僕に関心を持つ人が現れ、探索対象とされた場合、作業しやすいように十分な資料を残しておこうとの、そんな副次的な目的もないわけではなかった。

その主目的は大いに果たされてきているので、たとえ副次的目的が果たせずとも悔いはないが、ともあれ、そうした発展になってきたのは、自分としても大歓迎な話だ。

そこでなのだが、これまでそうした自己分析とは、言い換えれば、自分を実験台として“献体”にしてきたということなのだが、それがかくして、誰かにの手によって「俎上の魚」にされるとなると、それはやはり、違った次元のものとなる。

切り刻まれる献体役なのだから当然だが、どう分析そして結論付けられるのだろう。

 

3QsP Day 265(2022年4月13日〈水〉)

「君は何洋人?」 この「洋」とは、西洋、東洋の洋。

そういう二元論からの、いよいよ、卒業の時を迎えているのだろうか。

つまり、《究極の想定は「多様性」》であり、そこには、洋の東西の優劣はないはずだ。だからこそ、自分がたまたまに属してきた過去からの「卒業」を迎えているのではないか。

ただし、その《優劣のない想定》はまだ実証途上の概念。その証明は永遠に続く作業だろう。

すなわち、《自「洋」優越論》の反対概念が《多様性論》。そしてその立場が、究極の《科学》なのだろう。

言うなれば、「科学は非科学を包摂できるか」。

逆に言えば、排除の理論としての科学に、多様性を語る資格はない。

 

3QsP Day 267(2022年4月15日〈金〉)

教育の話だが、小、中学で「保健体育」というのがあった。この「保健」だが(高、大へとも延長して)、健康というものを、維持を上限(マイナスからゼロ)とするのではなく、その維持は前提として、それを開発、拡大する(ゼロからプラスへ)といった、いわば《創造的健康》というものへと向かうべきと考える。

しかもそれは、身体と精神が相互啓発し合って向上する全体性を通して、それをインフラ資源とした、全人間的な創造をめざすものと見る。

そういう自己自身の資源のレベルアップを図る分野を「自分学」とでも呼んで、一種の基礎教養教科としたらよい。

むろんこれは、私的利得を狙いとするものなどではなく、広く、人間の多様性をベースに、その多様な個々や価値観の掘り下げと相互の理解を織り成させてゆくもの。

 

3QsP Day 268(2022年4月16日〈土〉)

この数日、足の養生のため、はじりをやめていたが、今日、再開してみた。出だしは調子よかったが、3キロを過ぎたあたりで、ツーンとした痛みが走る。大事をとって4キロで歩きに切り替えて、合計6キロ。西洋医学的には「疲労骨折」の疑い。

それに、タイミングとしては、お灸を始めてからと重なるのだが、体全体の調子が悪いのではないが、軽快でない。何やらが生じている。好転の前の調整期なのか。

 

3QsP Day 271(2022年4月19日〈火〉)

イースター休みの機会に、友人たちが集まった。カップル3組の集まりだが、男たちは同世代で、私が最高齢で1歳ずつの差の3人(2人はオージー)。ところが、どこから見ても、私が一番若い。ことに最年少のPは2度の脳溢血からかろうじて生還したものの、体重を増やしてしまい、もう歩くのも難儀。もう完全な要介護。奥さんにしてみれば、ジョークでなく、幸運な生還がむしろ恨めしいところだろう。

むろん他人ごとではなく、自立、自活の生活維持は、もはや最優先課題そのもの。

思えば、2017年の私のクモ膜下出血からのパーフェクトな生還は、奇跡のようでもあった。

 

3QsP Day 272(2022年4月20日〈水〉)

右足人差し指付根の痛みで、はじりを抑え、泳ぎに集中している。しかし、泳ぎはどうしても上半身の運動が主となり、ことに足の筋肉の衰えが気になる。

そこで今日は、天気も上々、気分も乗って、足指にできるだけ負担をかけぬよう、そろりそろりとはじってみた。

途中で一度、バランスが右に寄ったとき、痛みの走りかけを感じただけで、なんとか6キロを完走できた。ただし、タイムは56分8秒と、ほとんど歩きと大差ない。

そこではじりながら考えていた。いくら運動が重要としても、故障を出すようでは、元も子もない。そこで、それを出さないはじり方として、「養生はじり」もあって然りだ。傍目を気にすればきりがない。「養生はじり」でも、その効果には大差がないなら、それでいいではないか。

どうやらこうして、「はじり」時代を終え、「歩き」時代に入ってゆくのだろう。

 

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