僕という“運動依存”者

《「人生二周目」独想記》第22号

僕が、この歳になってもこんなに健康でいられるのは、日頃、運動しているせいであるとは言えるだろう。

それは確かなのだが、実は、そんな前向きな理由だけで運動にいそしんでいると言うのには、一抹の嘘が隠されている。

僕を運動に駆り出す、もっとも切羽詰まったところでの理由は、じつのところは何よりも、居ても立ってもいられないほどに落ち込んだ気分にさらされている時、運動が、その陰鬱な奈落の底から、引っ張り上げてくれる絶妙な改善効果があることを知ったからだ。だから、そこまで深刻ではない場合でも、運動後のその効果への期待には、なかなかのものがあるのだ。

 

昔、運動を始めた当初、体のなまりが目に余るとか肥満対策とかといった、健康志向の動機がその発端とはなっていたのは確かだ。

それが、長く運動を続けてきているうちに、いつのことか、おそらく結構年食ってからだと思うが、運動の後、単なる爽快感や達成感に終わらず、そうしたメンタルな救済効果があることに気付き、それに注目するようになった。

そしてしだいに、かつ、年を追って、まるで酒やドラッグに頼るかのように、運動後のその救済感を期待することが、ひとつの明確な動機となってきている。

もちろんその一方で、運動のもたらす健康効果を意図し、期待しているのは看板通りである。

だからそこでは、そうした表向きな効用があるからこそ、その背後でのこの救済効果は、“悪癖”扱いにならずに大目で済まされ、隠れた目的となっている。

 

そしていまに至っては、運動は、その二重の動機を満たす、けっこう合目的的な日常的つとめにさえなっている。

言うなれば僕の場合、日頃の、そんな最ものっぴきならない必要を抜きにしては、運動にこれだけ長く、しかも尻上がりに、これほどにも親しんではこれなかったろう。

そこでなのだが、たとえば、ランニング中に気付かされたことだが、毎回のように行き違うランナーに、ある種の“同癖者”を感じることがある。つまり、そうした彼らはどうやら、欠かさずやっている熱心な人であればあるほど、同じような動機に駆られているがゆえのようで、そこに、そうした同類同士の気配を受け取ってしまうものがある。そして心なしか、彼らが、体格的にも性格的にも、なにやら僕に近い人物であるような気さえもしてきている。

 

ものの本によれば、運動によって、私たちの体は、一種の麻薬効果と言えるような効用をもつ体内物質を分泌し、それが脳に作用して、私たちの満足感や幸福感をもたらすということが解ってきているという。

だとすると、なにも健康うんぬんなぞと高尚な理由を繰り出さなくとも、私たちの体は、ただ、落ち込んだ鬱気分からの脱出を求めて、運動をしたくなる作りとなっているということだ。

そしてもしそうであるなら、いっそのこと、運動への志向を妨げるような環境だの社会風習などを排除し、誰もがその麻薬効果に“陶酔”できる社会として、むしろその副産物ですらある健康な人生を、誰もが享受すればよいとさえ思えてくる。そうなればその経済効果だけでも、ぼう大なものとなるに違いない。医者はお客を減らし、「アシックス」は繁盛するだろうが。

 

運動のもつこうしたメンタルな改善効果が、そのような生体本来の仕組みのなかにあらかじめ組み込まれたものであるとすると、僕が引っかかっているような、運動をいざ始めようとするの際、ことにその依存効果に期待して腰を上げる時の少々後ろめたい気分について、なにもそう気に病むことなぞ少しもないこととなる。

それはそもそも、鳥が空を自由に飛びまわるように、自然なことであるのだから。

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