「はじり」でなく「走り」に

2月22日〈日

日本からの連絡によると、兄の死因は新動脈瘤の破裂という。病院にいて、それが起こったというのは何か解せない。義姉も同様のようだ。

 

2月23日〈月

事故で被った手首負傷の事後診断のため、病院へ行く。診断結果は治癒ということで、ギブスもとれた。ともあれ、全治一週間程度で済んだわけで、その意味では安堵。今後、何らの後遺症のでないことを願うのみ。

さっそく、6キロラン。タイムは52分6秒。29度の暑さの中なら、まずまずだろう。

それと、記事「ひとつの仮説」のように、自分の運動能力の高さが客観化された以上、これまでの「はじり」という自己卑下した呼び方はやめる。ただ普通に「走り」とする。

 

2月25日〈水

日本では、兄貴の葬儀が行われているはず。

8キロに距離を延ばす。1時間9分22秒で、事故直前の8キロより、ちょうど2分遅い。

 

2月26日〈木

放射線治療のための、事前処置手術の予定だったが、埋め込む針を用意する手違いがあって、手術できずに延期。3月12日になりそう。

 

2月27日〈金

6キロラン、51分31秒。

 

3月2〈月

8キロラン、1時間9分24秒。

 

3月3〈火

事故後はじめての水泳。500mを14分44秒。もっと悪いかと思ったが、それほどでもない。

 

3月4〈水

一つの“飛躍”を行った。今日、『フィラース』上に、「私風人間生命論」を掲載し、「3周目」人生のグランド構想の主柱を立てた。そしてそれを「飛躍」というのは、ここに詳しく記録してきている私の運動について、それを生命の「自己組織化能力」の一環だと認め、それをこの「生命論」としたことだ。しかも、AIをつかって、私のこれまでの無数の記事の制作も、その「運動」に相当する、人生過程を生命過程都見なした上での、これも「自己組織化能力」と認めていること。

この二重の認証は、むろん生物学上でもされていないもので、きわめて異端なもののはず。つまり、私のこの議論は、科学の枠組みからは外れているもので、別領域の議論だ。

RPA病院へ、「針」を受け取りに行く。その埋め込みのための手術は、3月12日に決定。

 

3月6〈金

事故による負傷が治癒して、自転車に乗ってのプール通いを再開した。ところが、乗ってみて驚いたのが、以前は何とも不安もなくやれていたその自転車乗りが、えらく恐さを伴うのだ。事故によるトラウマと言うには大げさだが、その嫌な記憶がどうしてもよみがえってくる。

よって、そうした恐さを乗り越えてゆくには、極めて慎重になる必要がある。

そこで思ったのだが、これはこれで、足のこぎから感知神経の喚起まで、自分の全能力を使って自転車乗りをしているわけで、それほど、心身にはよい刺激となっているはずだ。

ただ、それがストレスになっては元も子もないので、事故の発生した危険個所付近は、車道を行かず、歩道を、通行人にやさしく、ゆっくりと行くことにした。急ぐ必要は何もないのだから。

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