「健康インフラ」にこそ注目

ワクチン、打たぬが無難

越境体験=QL;コンタムライフ実践編(その33)

QL 2Year+138Day(2021年5月11日〈火〉

ちょうど一週間前、凡庸な運動の繰り返しを「インフラ」と呼び、その蓄積が、成果をもたらすだろうとの予感を書いた。

そうした身体インフラで自らを支える健康オールディのなす、そんな成果の一例だが、以前では、レストランでの仕事の際、若い同僚に混じって働く効果として、年配者のもたらす職場の人間関係の円滑化があった。

また、現在では、年金生活入りまであと3年を残す“相棒”は、生涯携わってきた旅行業界の仕事もコロナで蒸発した中、派遣会社に登録し、ホスピタリティ業でフルに働いている。そこで、私が家事役ことに食事関係を受け持って、彼女の外勤を支援するといった――伝統的価値観で言えば「男女逆転」した――役割分担関係が出来上がってきている。

そこでだが、こうしたまだ健康に働けるオールディかつ年金受給者ならではの役割は、その働きがフレキシブルな限り、他世代の“基幹労働”がゆえに拘束のきつい生活の、その不自由さやゆとりのなさを補い、さらに可能なら、その味気を欠く労働にやりがいを添える――たとえばその労働が、「誰かのために」と張り切れるその「誰か」となる――ことすら可能だ。

もちろん、こういうフレキシブルな噛み合いは、個人同士の親密な関係の中で成立するもので、それがもし家政婦業化してしまっているとするなら、それはただの家事外注の変種だろう。

しかし、年金生活オールディで、身近にそれ相応の親しい人間関係をもつ場合、こうした意気投合した関係が成立しうる。昔からのその典型は、いわゆる「孫の子守役」だろう。

要は、その人の持つ、生きた人間関係とフレキシブル度しだいで、基幹労働負担にすり切れた、余裕を欠く家族や社会関係のなかでの、潤滑油の役目には十分になりえる。

繰り返すが、そういうフレキシブルな噛み合いは、それなりの生きた人間関係のあることを基盤に、必要に応じ、臨機応変に作り出されるもので、そうした人間関係を欠いた他人あるいは市場任せから得られるものではないだろう。ことに人材派遣ビジネスによる職に――たとえそれがAI等による“最適配置”なるものであったとしても――、親身で血の通った機微を通わせるものは期待できまい。

私の場合、そうしたフレキシブル度を支える健康維持のためのインフラ作りに、毎日の2時間ほどを費やしている。それを私は、自分にとっての「仕事」と呼んではいるのだが、この脱基幹化した人的資源の有意義な活用法は、そう呼んでもよいものだと考えている。

かくして、この日々2時間程度のおかげで、他の数時間が、自分はおろか、他者への役立ちにも使えるフレキシブルなものに生まれ変われる。時にはそれは、けっこう感謝されたりもする。インフラとしての健康とは、そういう嬉しい驚きも打ち出してくれる、打ち出の小槌といってもいい。

 

QL 2Year+139Day(2021年5月12日〈水〉

昨日書いたように、健康オールディの働きは、ぼやぼやしていると、それは新手のサービス業に取り込まれてしまう。すでに一部の派遣会社では、収入が必要な高齢者と安価な人手を求む企業とをマッチングさせる、高齢者専用の派遣サービスを手掛けだしている。いうなればそれは、ただ、貧困な社会生活が、退職後へも延長されているがゆえと言っていいものだが。

ただし、私が取り上げているのは、それをサービス提供職としてではなく、《人間価値交換》として位置付けるものだ。

というのは、ここにまたしても、社会にひとつのスぺクトラムが出来ており、一方の極には、一対一の生きた人的関係があり、他方には、市場価値化されたその断片の売り買いがあるためだ。後者に頼る限り、結局、自らの商品化に、現役時代と同じく、再び陥ることとなる。それを厚顔無恥に「生涯現役」などとお為ごかす向きもある。

だが、まともな話を望むなら、そもそも人の社会とは、市場社会の対極に位置していて、十人十色な人たち同士の十人十色に違った人間価値の交換・交流の場のはずだ。それを現社会は、労働の売買制度と、せめての男女関係すらも婚姻制度という仕組みに封じ込め、前者では人間をモノとして売買し、後者では市場売買用の次世代の“商品”を生産させている。

【5月26日追記】日本からの報道によると、人気ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」の主役二人が結婚するという。実は、このドラマ、まだコロナ以前の日本に滞在の際、その始まり部分を見てこれは面白いぞと感じ、そのために今でもよく覚えていた。ただその題名については、いまひとつその意味がよくとれないでいた。ところが今、その結婚報道に接して、突如、その意味を納得すると同時に、この二人、そのドラマの意味を何ら判っていない、プロ意識をも欠く二者ではないかと思わされた。つまり、このドラマのテーマとその人気の核心は、現行婚姻制度に抗したどういう男女の関係が可能かということの提案であり、だからこそのこの「逃げるは恥だが役に立つ」との題名だったのではないか。それを、たとえそれが演ずる役だったとしても、そのヒーローとヒロインが現実に普通に結婚をしてしまっては、そのテーマはいかにも、ただの作り話だったということを公言するのも同然で、熱をあげていた人々の気分もシラケてしまう。せめてお二人は、今からでも遅くない、その結婚から「逃げ」て「恥をかき」、「だが役に立つ」、ユニークな現実生活を実行されることをお勧めしたい。

こうした、労働と生殖の仕組みをなんとか生き抜いた後に達しているのが退職後の生活のはずだ。さあそこで、どれほどの人間味を維持、展開しようか。

そこで出てくるのが年金の話だが、少なくとも公的年金は、良くとも、その社会の最低生活水準を越えないよう制度設計されている。

一方、私がそこで健康をも「年金」と呼ぶのは、健康でありさえすれば、それがその不足分を補ってくれるに終わらず、その人間味の維持、展開を可能にしてくれることだ。

ゆえに、現役基幹労働時代に、ゆめゆめ、自らの健康を売り尽くしてしまってはならない。

 

QL 2Year+141Day(2021年5月14日〈金〉

全二日行程26キロのコースト・トラックを7時間半で制覇(別掲記事)。これで、上記「凡庸な運動の繰り返し」に、ひとつの変化をつけれた。

ところで、もしこれがコロナなしの年であったならば、ヒマラヤとかどこか海外のトレッキング報告となっていたろう。それが、誰しもが巻き込まれているこんな情勢にあって、外国旅行はおそらくこの先、相当長くおあずけとならざるをえない。

おかげでそれまで、その出費は個人的には不必要となっているが、世間では、旅行業界に流れ込んでいたそうしたマネーは、どこへ転流しているのだろうか。

物騒がしく感染が取り上げられ、少なくとも、莫大な費用が、ワクチン製造の製薬企業に支払われている。しかもその払い手は、各国の政府という取りっぱぐれのない存在という構図。あるいは、リモート就労の実現手段を提供するとして、IT産業はまさにコロナ特需で潤っている。これは、軍産複合体に代わる《政治・医薬・情報複合体》の登場ではないか。

また、ワクチンの副作用の危惧だが、この先、ウイルスの変異と新ワクチン開発のいたちごっこに加え、全員接種などという“絨毯爆撃”が繰り返えされれば、副作用――遺伝子情報の混濁による治療不能の病態を起こす可能性――は恐ろしく高まってゆくだろう。サリドマイドとかスモンなど、過去の薬害の再来どころでは済まないのではないか。予想はまったくつかず、情報の開示も乏しい。

急死すらありうるコロナワクチンの副作用について思うのだが、保健当局は副作用の危険確率より接種効用度の方が遥かに高いがゆえにその副作用は是認されると説明している。だが、そもそも、感染予防――極言すれば、たかだか“フルーもどき”の予防――のためのワクチン接種に、命を賭す必要があるという論法には大いに疑問が湧く。むしろそれは、ワクチンの大衆接種前提の論理で、医薬ビジネスの思惑や戦略の代弁でしかないだろう。加えて危惧されるのは、たとえ死亡は「極めてまれ」としても、確実なのは、長期的影響が未解明なまま、異質遺伝子情報を万人の体内に注入することである。したがって私は、この程度の感染の恐れに対しては、そんな危ない「ばくち」に頼るより、自分の体が本来持つ免疫力を痛めつけず活用する――できる限り違和な遺伝情報を受け入れない――ことを地道に優先する方がはるかに無難かつ適切な対応と考える。

 

QL 2Year+143Day(2021年5月16日〈日〉

昨日、腰痛対策のストレッチを入念にやったためか、今日はほどんど、痛みが消えている。まだ、なんとなく危なっかしい感じはあるのだが、心配するほどのものではなさそうだ。

 

ところで、昨日の話を続けて考えてみるのだが、そもそも新型コロナウイルスという私たちの遺伝情報を悪さすると説明されている“病原体”って、果たしてどの種の危険なしろものなのか。

これまでだって、毎年のようなインフルエンザウイルスによる感染流行やそれによる死亡は、同じように起こっていた。加えて、統計上、コロナの流行以来、インフルエンザ患者数は激減し、コロナ患者数がそれこそ激増している。これは、単に、感染や死亡統計の分類上の違いに因るものではなのではないか。保健当局はそれを、コロナ対策の浸透で、人々がうがいや手洗いを励行するようになったからと説明している。ならば、それはインフルエンザ対策の効果ということで、コロナ対策にはなっていないどころか、はたして、コロナという分類やそういう恐れるに足るウイルスの存在自体が見当外れか、あるいは、従来のインフルエンザウイルスの新たな変異をそう別扱いして大騒ぎしているだけではないのではないか、とすら見れる。

こうした動向の背景を見渡せば、「情報時代」とは、言われ始めて久しいが、コンピュータの登場とその利用の生活の隅々までもの浸透で、かつての「産業革命」に代わる「情報革命」が発生し、世界の活動の中心、つまり、新たな金儲け=経済体制=資本主義の重心が、モノの生産から情報やデータの生産へ――つまりハードからソフトへ――と移ってきていることが指摘できる。

こうして、人間がもっとも没頭する活動域、つまり経済体制において、その生産=金儲けの中核がモノから情報財へと移り、そうした発想やインセンティブが社会の中心規範となってきた時、そんな社会が興味を示す対象も、陰にも陽にも、モノから情報分野に移ってきても何ら不思議ではない。

かつての産業革命の当時、モノの生産には物的資源が不可欠で、そのホコ先は、農業や鉱業に向かい、絹、綿、麦、米、コーンや石炭、鉄鉱石、金、銀、銅等々を追い求めていった。いまやそのホコ先は、新たな原材料発掘産業として、農業や鉱業に代わる産業、つまり、事務や金融産業、運輸・通信産業、そして、医療についても伝統的な外科や内科より脳や遺伝子を扱う医学等々へと移ってきている。

こうした時代にあって、人間社会に眠る新たな金儲け資源として、健康という万人の需要すなわち医療や薬剤にまつわって、その生物情報面が新たな「マイニング」として脚光があてられても不思議ではない。それに、ウイルスという情報病原体は、そのあらたな「鉱脈」とすらみなせる。ちなみに、ウイルスなら、変異として次々にその新資源を生んでくれる。その出現可能性は限りなく、まさに「金鉱」である。

繰り返せば、モノへの執着の薄れた現代社会において、ウイルスへの着目は、かつてのアメリカやオーストラリアでの金鉱の発見にも等しい。そういう意味では、現在の国をあげての「ワクチン・ラッシュ」は、かねての「ゴールド・ラッシュ」を再想起させ、売りつけ先として、各々の国は、倒産の懸念もなく、これにまさる好商売相手もないだろう。

これまでに、コロナについては、それはいったい何であるのか、いろいろと書いてきたが、この医・政・ビズにまたがる新「マイニング」というのが、その回答というところだろう。

だからこそ、DX(デジタル・トランスフォーメーション)に並んで、この生物情報の開拓が、世界をおおって発生している。

 

QL 2Year+144Day(2021年5月17日〈月〉

去る金曜の日帰り踏破達成の後、土、日と二日の休養をとったせいか、今日の運動は調子よく、10キロはじりが81分ちょうどと、上々なタイムで終わらせることができた。

腰痛も、運動の効果かしこった感じが無くなったが、やや痛みは残っている。

さて、こうして、インフラの質は上がってきたとしても、その最終目的であるはずの生産上の向上はどうか。

 

QL 2Year+146Day(2021年5月19日〈水〉

上には上があるものだが、マスターズ競技会の日本記録によれば、70歳代の10キロのそれは40分ほどだ。こっちは80分を切れるかどうかといったレベル。

 

 

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