Day 170+400(10月9日)
ヒマラヤ・トレッキングは、大成功のうちに無事終了し、おおきな充足感とともにシドニーに帰ってきました。
そして「大成功」とは、自分の体力・気力全般につき、これまで《避けられない下り坂》という認識にあったものが、必ずしもそうではないのではないかといった、新たな展望を得られたという体験です。 詳細記事
Day 170+400(10月9日)
ヒマラヤ・トレッキングは、大成功のうちに無事終了し、おおきな充足感とともにシドニーに帰ってきました。
そして「大成功」とは、自分の体力・気力全般につき、これまで《避けられない下り坂》という認識にあったものが、必ずしもそうではないのではないかといった、新たな展望を得られたという体験です。 詳細記事
Day 170+369(9月8日)
22日に本ブログが更新されている頃は、私はインド北部のヒマラヤでのトレッキングのため、深き山ふところに向かって移動中のはずです。 詳細記事
Day 170+353(8月23日)
20日に69歳の誕生日を迎え、70歳の大台まであと一歩のところまでやってきました。
さて、ここまでくるとさすがに、残された自分の能力資源を無駄にせず、有効に使ってゆきたいという気がいっそう深まります。 詳細記事
Day 170+345(8月15日)
《自然治癒力》という言葉があります。医療や薬に(必要以上に)頼るまでもない、私たちがもつ自然な身体の力を信頼し、それに立ち返る視点です。
同列な発想で、私はここのところ、《自然健康力》と呼んでもよいものを意識した生活態度にこころがけています。 詳細記事
Day 170+327(7月28日)
寒い日がつづくシドニーですが、今日は、昨日までの南氷洋から吹きつける冷たい南西風もやんで、暖かい日差しがまぶしいほどでした。
それでも、さすがに日が落ちてからのプール通いはひるんでしまって、昼食後のもっとも暖かいタイミングに、ひと泳ぎに行ってきました。
平日のこの時間帯となれば、来ている人たちはリタイアリーばかり。思いおもいのマイペースで、それぞれの泳ぎを満喫しているようでした。 詳細記事
Day 170+314(7月15日)
自分の健康を維持してゆくのは、夏目漱石の『草枕』の冒頭のくだりのごとくです。「智に働けば角が立つ。 情に棹させば流される。 意地を通せば窮屈だ。 とかくに人の世は住みにくい 」。正確にはこの前に、「山路を登りながら、こう考えた」との一文があります。
この切り出しを今の私の場面にあてはめればこんな風でしょうか。「医師に接しながら、こう考えた。頼りきるには危なっかしく、言うに任せればモルモット同然。自論を通すのは孤立の覚悟。とかく人の世は命すらも守りにくい。」 詳細記事
Day 170+293(6月24日)
二日前に行った血液検査結果が、今日、出ました。
気がかりだったPSA値は3.74で、3月の3.86よりかえって下っていました。このところ、食事療法が有機栽培野菜から通常の野菜に戻るなどの規律の緩みで、むしろ悪化を予想していたからです。
しかし、その心配は杞憂であったようで、全摘手術を避けた「active surveillance(積極的静観)」は、これまでの限り成功していると言えます。 詳細記事
Day 170+278(6月9日)
前回の記事のように、前立腺ガン患者のうち、5人に1人が7年以内に転位ガンを発病し、その場合の生存期間はわずか6カ月という調査結果が発表されている。
なかなか厳しい調査結果ですが、この調査は、オーストラリアNSW州での調査であり、しかも、その調査は、1993年から2002年までの10年間に前立腺ガンを診断された患者3万人余りの結果です。つまり、ほぼ20年ほど昔の同州の前立腺ガン患者にとっての現実がそうであったというわけで、現在の患者においては、その環境は大いに違っているはずです。
そういう次第で、この調査結果には、いろいそな解釈が可能なわけですが、そうだとしても、身の引き締まるものではあります。 詳細記事
Day 170+263(5月25日)
別家族とのシェアー生活が始まりました。シェアーの宿に長滞在している感じで、同居家族との、遠からず、近からずの生活は、ある種の妙味があります。
ことに、もうすぐ5歳になる男の子は、家の中にいる時でも、歩くということはなく、動く時はいつも走り回っています。自分もあんな時代があったのか、もはや記憶の圏内ではありません。 詳細記事
Day 170+260(5月22日)
ようやくにして、引越し作業のおおかたが終わりました。まだ、荷物の整理は残っており、かつ、新たな家での生活への慣れはまだまだで、まごつく日々が続いています。
やれやれです。
ところで、今度の引越し中に痛感したことですが、引越しという環境の変化への適応能力に、確かな《にぶさ》をしみじみと感じさせられました。何というのでしょう、新しい居住空間が、以前なら即時に自分の感覚に入ってきていたのですが、それがなかなかそうでないのです。ひとつ何かのクッションをおいたその先のような感じなのです。それに、いったん解体した元のさまざまな品々の存在感が、荷物を解いて配置しなおしても、かってのそれらの諸物の感覚がよみがえってこないのです。 詳細記事