2月8日〈月〉
日本、自民、単独で316議席獲得、三分の二の311すら越えた。日本の有権者の選択がこれである。国が分裂するよりはましとしても、とても健全な選択をする統一とは思えない。政治の堕落は止まりそうもない。
2月12日〈木〉
暑い日が続き、エクササイズのタイムは平凡なものが続いた。そこに今日、昨日までの暑さが一変し、最高気温も二十度半ば。時折小雨も降る中、これぞチャンスと帰豪後はじめて8キロに伸ばす。タイムは1時間7分20秒、キロ当たり平均8分25秒と30秒も切っている。記録を調べると、昨年中も、6月に7分台が一回あるが45秒でこれ以上、一昨年までさかのぼって、12月18日に、6分34秒があって、それ以来の好記録ということになる。それほどの記録なのだが、事後の疲労感はさほどない。それどころか、妙に意欲もわいてきて、夕食の準備にも精が出せた。
そこで思ったのだが、私にとっての運動とは、健康維持のレベル以上で、まるで運動が脳の働きを維持し、生き方全体を前向きにへと引っ張っている。つまり、精神ではなく身体が生の高さを創り出しているとも言える。脳の働きとは、そうした体の働きに追随しているだけのようなのだ。
こうした見方を〈運動優位論〉と呼ぶとすると、もしそれが正しいならば、運動機能インフラとしての身体機能の果たしている役割の重大さを示唆している。つまり、身体は頭によって統治されているのではなく、体と頭は、相互に支えあう相互支援関係にあるのだ。つまり、体の働き=運動が高いレベルでない限り、頭の働きも低いレベルに留まるのだ。もちろんここで言う「運動」とは、いわゆるスポーツを指すのではなく、生活全般における身体を動かすことによる効用を指す。戸外で走ったり泳いだりするだけでなく、そうした運動機能をもって、たとえば、家事をしたり、必要なものを手に入れたり、危険を避ける行動をしたりと、生命活動全般を仕上げることなのだ。
〈運動優位〉とは、生命活動の性質をそのように示唆していることだ。だから、頭脳の働きを高度な情報処理装置に置き換え、それとロボットが結合したフィジカルAIができたとしても、フィジカル側と情報処理部との間の相互支援関係なくしては、それはどこまでもプログラムされた装置でしかなく、生命体には遠くおよばない。
運動した後のあの爽快感と満足感を、AI装置は感じることができるのだろうか。まして、人が人を尊重し、親切にした時の相互の思いを、そうした装置にどこまで期待できるのだろうか。
2月16日〈月〉
交通事故にあってしまった。今日午後、自転車でプールに向かう途上、道路の左端を走っていたところ、左確認をせずに突然にレーンを変えてきた車にぶつけられ、路上に転倒した。直ちに救急車で病院に運ばれ、手当てを受けた。体を数か所、打撲をうけていたが、転倒の際に手をついたと思われる右手首にひびが入り、ギブスをつける結果となった(写真)。

右手を全く使えないわけではないが、当分、不自由このうえもない。もちろん、運動もおあずけだ。
事故にあった場所は、目的地のプールまであとほんの数百メートルの地点で、片側二車線の道路が、線路のガードをくぐるため一車線に絞られる、常に車が交錯している部分。いつも細心の注意を払っている所だが、今度のような場合は、もうどうしも避けようがない。
その運転者は私とほぼ同年齢と見受けられる杖に頼る高齢者で、申し訳なさそうに自分のミスを認めていた。車の左側後部のブラインドスポットが見落とされていたからのこの災難。そこに入らずに走るには、レーンの真ん中をでも、後続の車なぞ知ったものかと我を張ってゆくしかない。なまじっか他車に遠慮して左端を走っていると、こんな事故に会ってしまう。
自分にはまったく落ち度はないが、事故が起こってしまえば、弱者はこちら。だから重々注意しているのだが、危険を避けて歩道を走れば、法規違反となる。
この程度の負傷で済んだのは不運中の幸いだったが、夜になっての退院までの数時間、自宅との連絡がつかず、行方不明騒ぎともなった。
2月20日〈金〉
昨日、今日と、養生中もあって、はじりを避け、歩き。
昨日は8キロを1時間28分13秒で、今日は2.5キロを44分17秒だが、途中に数回の小ダッシュを入れた。
いずれもほぼ30度の暑い中で、汗びっしょり。
2月21日〈土〉
何やら、よくないことが続く。4歳上の兄が、入院中に急死した。心臓のペースメーカーの電池の取り換えのため、入院していた。私が一月の末、日本滞在中にその病院を訪れ、会っていた。他に異常はなく、すぐに退院のはずだったが、装置の具合が悪く、入院が続いていたらしい。あの見舞いが最後になろうとは。
