〈半分外人-豪州人〉という鏡像

〈半分外人-日本人〉(その2)

(その1)に続けて(その2)も掲載します。

先に、『日本人という呪縛』との題名の昨年末出版の邦訳本(原題は The curse of Japaneseness)を読みました。日本在住も長いデニス・ウェストフィールド(Dennis Westfield)と言う豪州人ジャーナリストが原著者です。

まず、ひと言でその読後感を述べれば、本書は、私が自称する「半分外人-日本人」の鏡像とも言うべき、「半分外人-豪州人」による日本人見解です。

著者は、1969年生まれといいますから、私より23歳若い、いわば息子世代です。そうした次世代の人物が、オーストラリアと日本を半々に生き、その体験から、日豪の対照的特徴をつぶさに述べています。

ことに私にとって興味深いのは、日豪の政治的比較をした際の互いにほとんど真反対な特徴――生きた民主主義や、健全な政権交代の有無――の由来について、それはオーストラリアの、もう一世紀もの歴史をもつ「義務投票制」(「優先順位記載方式」も合わせて)が大きな寄与をしていると指摘していることです。

この指摘に、私もまったく同感なのですが、意外にその点に注目する人は多くありません。むしろ、義務を強制と早とちりして「自由」投票制がいいと、反発する人も少なくないのです。〔文末の【資料】参照〕

ちなみに、もう20年以上も前の2001年、日本に一時帰国した際、私は、石井紘基・民主党衆議院議員――その翌年、政治的暗殺と思われる悲劇〔注記〕にみまわれた――に面会し、そうした見解を進言したことがありました。だが残念なことに、彼の注目点は選挙制度にはないようでした。

〔注記〕 今日の自民党の裏金疑惑をめぐる最近の調査報道によると、いわゆる「政策活動費」の本質的な問題――特別会計という国家の“隠し金庫”に――に気づき、初めて国会で質問しようとしていたのが石井紘基議員であったという。同議員は暗殺日の3日後に予定されていた国会質問で、「特別会計」の問題を取り上げる手はずとなっており、「これで与党の連中がひっくり返る」と周囲に話していたという。〔新 恭『国家権力&メディア一刀両断』 2024.02.09より〕

ともあれ、この本は、日本とオーストラリアのコントラストを、もっとも最近のデータや情報に基づいて明瞭に描き出しています。ことに、オーストラリア人の賃金が、日本人のそれのほぼ2倍であるとの格差がどうして生じているのか、その政治経済的背景の違いを指摘しています。

しかも日本には、事実上の増税もあいつぎ、生活実態での明らかな貧困化状況がありながら、近年の日本国内の、妙に能天気な「日本よい国」といったムードの蔓延に対し、彼は、日本の現実はそれどころではないのではないかとの強い疑問をていしています。

これにも私は同感で、製造業の勢いを過去のものとした日本は、その存続をいまや観光業に頼り始めた、その国を挙げての“売春業”――あえてこの言葉を使います――は、そのなれの果てです。

以下は、本書から、そのさわりのポイントのいくつかです。



なお、誤解のないように記しておきますと、著者は、日本を敵視したり見下したりしているからではありません。むしろその反対であって、著者はその最終章を以下のように結び、その本意を明瞭にしています。

すばらしい伝統文化と言語、歴史を持つという意味で、世界中どこを探しても日本という特殊な国は存在しない‥‥ /世界でまれに見る、日本という貴重で伝統ある国家が、これからも健全な国として発展し、それを支える日本人の精神的健康を願ってやまない。

以上のように、期せずして、私の鏡像のような著者の存在を知るとともに、日豪に関するほとんど重なり合う見解を見出し、こうした一致は、事態はたまたまのものではなく、国籍や世代を越えた共通認識として、日本の現状の深刻度への懸念を深めています。

くわえてこの「一致」とは、日本国民に共有されているかの「日本いい国」意識はどうも演出されているもののようで、本書のタイトルが如実に示すように、そこに隠されている「呪縛」という、両者の「鏡像」関係が映し出す、これまた「双対性」の深みを意味しているようです。

 

【資料】

オーストラリアの投票率は「100%」

(「両生空間」 2004年2月12日付記事)


今、オーストラリアでは、今年末とも予想されている連邦総選挙をひかえ、選挙談義が日増しに盛んとなっています。与党の自由・国民連合が四期連続の勝利をえるのか、あるいは、労働党が政権奪還に成功するのか、ことに一月末に開かれた労働党大会で、新しい指導者となったマーク・レイサム氏がデビューし、新生労働党の動向が焦点となっています。

            
   労働党新指導者、マーク・レイサム氏(42才)を「次期首相か?」と報道する地元大衆紙

こうした政治の表舞台をめぐる報道とは裏腹に、オーストラリアの選挙制度では、投票が強制(投票に行かないと罰金が科せられる)となっており、事実上100パーセントの投票率を維持していることは意外と知られていません。

専門家にたずねてみると、この罰金が科されることは実際には少ないようです。というのは、投票に行かなかった人には、後日、選挙管理委から審問の手紙が送られてくるのですが、それに容認される理由を書いて返送すれば、それで許されるからだそうです(「忘れてました」では罰金!)。

ともあれ、病気や負傷(という理由)で投票に行けなかった人や、移転などのため選挙人登録が済んでいなかった場合などを除き、96~97パーセントの有権者が投票をするそうです。また、不在者投票も広く行われています。

このように、ほぼ全員の有権者が実際に投票をするオーストラリアの選挙。その結果は、数パーセントのいわゆる浮動票が選挙結果を左右するといってもよく、日本とはちがって、選挙予測がみごとに外れて想定外の政権交代がおこるといった興味深い結末ともなるのです。もちろん、それで国が滅びるといった事態にも至っていません。

つまり、これほど政治家に厳しい制度もないと言えるでしょうし、投票する国民の側も、自分の投票が結果にもつぶさに反映されることが多いので、より強い関心を呼び起こします。ちなみに、オーストラリアの投票権は18歳から発生します。

こうした制度の是非について、当然に議論はあります。その代表的なものは、強制投票は愚民政治におちいるというもので、米国や日本のような(もののわかった人々による)自由投票制を主張します。

しかしそれとてもあまり盛んとは言えず、この制度が社会に広く受け入れられているように見受けられます。選挙民を愚民よばわりしなければならない議論は、まかり間違えれば、選挙民の反発をかって、政治家には自殺行為にもなりかねません。

また、オーストラリアでは、プリファレンス制(投票の際一人を選ぶのではなく、立候補者の全員に順番をつける)というユニークな方式も採用されており、あわせてオーストラリアの選挙制度の特徴をなす二本柱となっています。

こうした投票制度により、いつもは個人主義に徹している国民も、いざ選挙となれば、文字通り社会全体で国や政治を考える機会が(制度的な強制ながら)提供されることとなり、各々の考えを一票に託す行動を定着させてきているとも言えます。

これは私見ですが、「強制」という聞こえの悪さとは別に、実際の効果として、政治家を緊張させ、有権者の<全員>に自身の意見を問う習慣を根づかせてきたこの制度は、オーストラリア社会の伝統である、イガリタ二ズム(平等主義)とフェアー精神をつちかう、制度的いしずえになっていると思います。

 

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