中央アジア歴訪(アフガニスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン)

6月7日〈土

マザリシャリフは、とくに特徴がある町ではないのだが、移動の都合上、アフガニスタン最後に宿泊。町はけっこう西洋化されていて、現地資本なのだろうが、ピザとハンバーガーのレストランがある。一階はキッチン、二階は男席、三階が女席となっていて、我々は三階に通された。味はただ食える程度。

泊まったホテルで、驚かされたことがある。入口に保安員が常駐しているのは他のホテルと同じなのだが、その入り口の構造が並ではなかった。外部からの攻撃に耐えるよう、まるで金庫の入り口のような厚い鉄製の扉で、少々の爆弾くらいでも平気だろう。

そのホテルを出て、国境へ向かう。

国境は、先の5月29日にタジキスタンよりアフガニスタンに入国の際に越えたアムダリア川を、その下流で逆に越えるのだが、その国境検問が、前回のイージーさとは裏腹にやたら厳しかった。アフガニスタンはやはり危険視されていて、その隣国からの武器や麻薬の密輸に備え、持参の荷物の隅から隅まで、文字通りしらみつぶしの検査をされた。しかもそれが、橋の中央の検問所と、渡り切ってからの国境管理所と、二度にわたってである。越境者は私たち二人だけなのだが、その所要時間は二時間におよび、これが大勢の越境者があったとするなら、それこそ、丸一日の作業となっただろう。

なにはともあれ、かくして難関であったアフガニスタン訪問は、予想外の成果をえて、無事終了することとなった。

すべてを終えて、国境ゾーンから出ると、人影のない駐車場にタクシーが数台待ち受けていて、さっそく、国境の町、テルメズの街外れのリゾート風ホテルに到着。

 

6月8日〈日

このテルメズのホテルは、今回の旅行の内、最高級のホテルと言っていいだろう。かと言ってさほど高いわけでもないのだが、ソ連時代の栄華を思わせる居間付きの部屋で、内装もちょっと凝っている。鉄道の終点となっていて、国境の川を上ってくる船の港町でもある。タクシーの運転手は、日本からの船も着くというが、この川の河口はカスピ海である。

北のソ連の寒冷な地から、この南の温かい地へのホリデーが盛んであったのだろう。

街並みも、ソ連式と思われる独特の意匠の建物がつづく。

町の高級住宅街とおぼしきマンションの列

このテルメズという町は、古代仏教の面では重要だ。先にも書いたが、三蔵法師の天竺への旅では、町外れに存在した僧院をたずねたという。ここから、今の国境のアムダリア川を渡り、アフガニスタンを経てインド入りした。

 

6月9日〈月

昨日までの三日間、イスラム教の犠牲祭で、多くの店が閉じられ、旅行者には不便となった。国が変わるたびに必要な両替も、街の闇業者に頼ることとなる。米ドル札に何かとケチをつけ、レートを下げようとする。

この国境の港町、テルメズを立ち、再び、タジキスタンの首都、サマルカンドへ。

「サマルカンド」、その聞こえももちろんのこと、そのたたずまいも、いかにもシルクロードの古都の体を今に伝えている。

何やら、アラビアンナイトの不思議物語の世界に入ってゆくかの予感がする。

古代シルクロード、キャラバンルート図(天文台資料館にて)

先の5月29日では、ここサマルカンドに、訪問というより通過したに過ぎなかったが、今度はこの首都に三日滞在し、ゆっくり休養もしながら、古都を観光。

アフラシャブの丘から望むビビハニム・モスク

夕方までほぼ半日の休養をとった後、街の見物に出かけた。

サマルカンドは、日本で言えば、京都といったところか。歴史的観光資源に恵まれ、その整備も行き届いていて、確かに、人気を引き付ける魅力に充分な都だ。日本人も含め、多種多様の旅行者の姿でにぎわう。それに、この古都は、鉄道駅のある新市街と、歴史的資産にあふれる古市街とに分かれていて住み分けができており、いわゆる混住による混乱も感じられない。

夕暮れ時のレギスタン広場。1420年より3年の歳月を要し、君主であり天文学者のウルグベルによって造られた。

日も落ちた同広場。ライトアップショーが始まり、音楽に合わせて色が踊る。

民泊宿の入り口。いかにも時代をへている

 

ただ、この都は、いかにも観光志向が明瞭で、税や料金もしっかり課され、それがけっこう出来過ぎていて、個人的な興味という点では、私にとっての濃度は薄れがち。

しかしそれでも、いわゆる旅行者や古代文化に興味ある人にとっては、手芸品もすぐれ、お土産品も豊富で、気分を高揚させられるのは確かだろう。

三泊したゲストハウスも、古市街の中に位置していて、築105年という古民家でUNESCOによる歴史遺産指定をされていて、こみ入った路地の奥にあり、その中庭には、実をたっぶり付けた杏の木があった。ほとんどの歴史遺産へは徒歩の距離にあり、観光には便利な場所であった。

 

6月10日〈火

サマルカンド最終日の今日は、暑さもほどほどで、そよ風も吹く。そこで、なかなか関心をそそられる、15世紀の天文台跡を訪問。宿から徒歩で3キロほどの小高い丘にあるその遺跡は、望遠鏡が発明される200年も前、丘の頂上に子午線にそって半円形(直径46メートル)の溝を掘って目盛り(写真右)をつけ、天の公転を観測したもの。その結果、一年を計測して、現在の計測値とわずか63秒の狂いしかない365日6時間10分8秒との数値を導いていた。なお、この天文台を建設したのも、上記のウルグベルであるという。


ミルゾ・ウルグベル(1394-1449)

説明なしで、これが何なのかは判るまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ウルグ・ベクは1420年ごろに完成したウルグ・ベク天文台で天文観測を行い、1437年/41年頃にウルグ・ベクたちの観測結果は天文表としてまとめられた。天文表には1,018の恒星が記録され、うち約900の星の記録は実際の観測に基づいており、計算に少数、円周率を用いた星の観測は、当時のヨーロッパ世界の研究水準を凌駕していた。〔ウィキペディア記事を要約〕

 

6月11日〈水

三泊したサマルカンドを、昼過ぎの列車で、ブハラへ移動。3時間ほど。

ブハラは、サマルカンドをコンパクトにしたようなこれまた古都。

冷房の効いた列車を降りると、いきなりモワーとした暑さが襲ってきた。

駅前での相変わらずのタクシー運転手の群れによる客引きをかわし、まあまあの料金の地元タクシーを選んでホテルへ。

一休みした後、さっと街を見物。

町の広場。右手がタキ&カラーンモスク

ウルグベク・メドレセ前にて

夕方、先に同行し別行動をとっていたグループの一人と合流して夕食。彼の話では、そのグループはその後アフガニスタンを車で移動中、屋根に乗せた荷物を途中で落としてし紛失したことが発生。手持ちの小荷物以外、すべてを失うという事件の遭遇したという。

夕食後、ライトアップされた街を再度、見物。

 

6月12日〈木

ブハラ最終日。

訪れたアルグ城は、レンガの壁で囲まれた城なのだが、その城壁の形が、いかにも当地らしい。

独特な形のアルグ城の城壁

その後、バザールへ。平面に広がった市場なのだが、食品から衣料、雑貨、電化製品まで、いわばなんでもある市場。これを立体的に重ねて建物に納めれば、百貨店というところか。

 

6月13日〈金ブハラを早朝の列車で立って、約5時間半、ほぼ真西に向かい、ウズベキスタン最後の町ヒヴァに移動。

途中3時間以上、列車は砂漠の中を砂煙を巻き上げて進む。冷房はなく、砂塵が舞い込むため窓は閉じられ、車内はだんだんサウナ風呂のようになってくる。

ヒヴァに近ずくと緑が増えはじめ、窓を開けられるようになるが、吹きこむ熱風を我慢しながらヒヴァに到着。

車窓から左右どちらを見ても、見渡す限りの砂漠。

ヒヴァの城壁内の監視塔

日も沈み、熱風がやや涼しく感じられるようになった宵、同じ列車でヒヴァに着いた日本人女性と、先の別行動をとっていた男性との合わせて四人が会合。これから、トルクメニスタン、イランと同行するいわば発足式を、ヒヴァ城壁外部のパブで行った。

このパブ、中ジョッキの生ビールが一杯100円しかしない。空気は乾ききっており、意気投合もあって話は盛り上がり、三杯も飲んでしまった(別記事参照)。

 

6月14日〈土

寄りにもよってまたしても、戦争の報が飛び込んできた。今度は、イランとイスラエルである。

印パ紛争のように短期の停戦合意を予期し、予定のままイラン入りすることもできなくもない。

だが、今朝の最新情報によれば、イスラエルがさらなる空爆をして、イランをさらに追い詰めている。イランは報復を宣言し、両者の応戦はエスカレートしそうな情勢である。

そこで再度情勢を考察すれば、短期な好転よりむしろ長期化の可能性の方が大きいと見るのが妥当そうだ。

文字通り、ほんのとば口にまでやって来ながらの事態である。非常に残念だが、ここでイラン入りはあまりに冒険的と判断、今回での実行は断念することにする。

 

6月15日〈日

クフナウルゲンチのシンボルの塔

ヒヴァを立って、イラン行きが無くなったための最終訪問国、四人グループとなってトルクメニスタンに向かう。

相変わらずの陸路の越境。これまでと比べればもっとも人数の少ない国境である。ウズベキスタン出国は昼休みをはさんでの眠くなるような昼下がりでの手続き。

トルクメニスタン側での入国はけっこう威厳的。

トルクメニスタンでの目的は一つのみ。俗に呼ばれる「地獄の門」の見物である。ただし、そのツアーを始め、入国手続きそのものも現地会社に頼るしかなく、ツアー料金一人405米ドルという、この旅行唯一の高価なパック観光。

国境で、迎えのトヨタハイラックス二台に乗車して出発。

途中、クフナウルゲンチと呼ばれる紀元前からの古都跡を訪ねる。昼のさ中、砂漠の中の焦げ付くような暑さの中、見学の意欲も萎えてしまう。

砂漠の中の悪路を5時間、夜9時、目的地「地獄の門」に到着。闇の中に火を燃やすクレーターが出現。

宿泊は、半キロほど離れた伝統住居ユルトにて。こんな砂漠の中なのにシャワー付きだった。

朝を迎えた「地獄の門」。背後にユルトの群落が

 

6月16日〈月

「地獄の門」を後にして、ひたすらに南下すること250キロ、首都アシュガバードに到着。この首都、1948年の地震で壊滅した町を復興させた近代都市。その計画された街並みと奇抜な建物群に目を見晴らされる。

あたかも飛ぶ鳥を思わせるアシュガバード空港ビル

 

6月17日〈火

午後、アシガバードをアシガバード航空便にて立ち、マレーシアのクアラルンプー(KL))へ。

アシュガバードからクアラルンプールへの飛行中、眼下に見えたアフガ二スタン・タジキスタン国境の山々。二週間前、この山中をドライブしていた。

 

6月18日〈水

早朝、KL到着。午前、バスで同国の地方都市テロクインタンに到着。

 

6月19日〈水〉、20日〈木〉

予定外のKL滞在。

下写真は、KLの名所となったツインタワー。30年前、オーストラリアの建設会社がその施工の一部に当たった際、現場管理の一端を担なわせてもらった。

ライトアップされたKLツインタワー。

6月22日〈日

朝、夜行便でシドニー到着。

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