9月7日号の旧デザインの最後の号で、デービッド・バーガミニ著の大書、「天皇の陰謀」の訳読を終えました。7年余りを要しました。
この完成は、私に様々な反映をもたらしています。
ひと言でいえば、「昭和前半期」の日本の歴史の空隙――ミッシングリンク――を、ようやく埋めることができたとの感です。そしてその結果、これまたようやく、日本やアメリカについて、客観的で大局的な目で見れるようになったことです。
その到達点から、テーマの憲法改正問題についても、それなりの見方が生じつつあります。
法技術的な観点では、憲法と言ってもそれは申し合わせたルールの一つであり、もし真にその改正の必要が生まれているなら、そうすべきであることです。
問題は、それが、本当に必要かどうかであり、何のために、何を目指して、それを必要とするかです。
現行憲法は、対米戦争の敗戦による産物であるのは疑いのないことです。そして、視点を反転させて言えば、アメリカは、欧州戦も含め、一連の戦争に勝利することによって、歴史的な自信を得ました。世界に君臨できるという覇権への展望です。そして日本は、この敗戦を契機に、当然に、その米国の世界覇権体制の傘下に組み入れられたわけです。
これは余談ですが、そういう米国が今日、自国の予算案すら通せず、その財政的破綻を垣間見せ始めて世界に戦慄をもたらしている様は、全身に傷を受けて、その苦しみの余りに、あたりかまわずのた打ち回る大蛇のように見受けられます。
その米国議会で、強く反対するのは、草の根市民運動に支持される「茶会派」の陣営です。彼らの主張は、米政府は覇権的な世界への介入を減らして、米国民の自由と幸福を重視する政策を重視すべきだという国内優先の孤立主義的な主張だといいます。アメリカの現実を直視すれば、それはそれでもっともな主張です。
こういう脈略で見れば、かっての日本の対米戦への挑戦――真珠湾攻撃――は、当時眠っていた孤立主義の「大蛇」を奮起させる効果をはたしたものでした。そして今や、その目覚めた大蛇の時代が終わりつつあるかの光景です。
そこでですが、戦後、日本は、その米国の樹立されたばかりの世界覇権体制の傘下に組み込まれたのですが、その「傘」という言葉からは、まず「核の傘」を思い浮かべます。ヒロシマ・ナガサキによって、その威力を世界にみせしめた、人類初の核兵器体制です。
その世界覇権のための戦略武器としての核兵器管理・統制を含め、原子力発電からジャズや映画やTVなどの文化、そしてパン食の普及に始まる食習慣の同化まで、完璧なまでの政治、経済、社会そして文化的な《植民地化》がその覇権支配の傘下のもとに、日本へと適用されました。
この、価値観までを含めた日本のアメリカ化こそ、敗戦以降の日本の復興と繁栄の、まぎれもない実相であったわけです。
実は私自身も、1946年に生まれてこの方、学校給食での米国産スキムミルクの常用から、放送が開始されたTVで親しんだ、「名犬ラッシー」だの「ローハイド」などの人気番組、そしておそらく、欧米文化に一様に憧れ信奉させられる精神傾向まで、その熱意や没頭のほどは、並々ならぬものがあったと思い出される一連の特性です。
先に述べた「日本人であることの不快感」も、そのような脈略から生じてきた、その戦後世代の日本人の一人の、かろうじてながらの、しかし、切実であった特徴であるかとも推察されます。
そういう意味で、現行憲法は、その「日本のアメリカ化」の根本シナリオであったと見るのは法外なことではありません。そして、もし、その憲法の改正を考えるのであれば、その「アメリカ化」の実態の一つひとつの是非を考えることなくして、ありえることではないはずです。言い換えれば、日本は、「アメリカ化」されて、どこが良かったのであり、どこが悪かったのか、その各々の検証です。
米軍基地の受け入れ(「思いやり予算」を含む関係出費総計は7千億円に迫る)から現在交渉最終段階にあるTPP問題まで、その「アメリカ化」の内容は広範かつ甚大です。
むろん、同盟国同士として、それ相応の共同負担はあってしかるべきです。その上で、そのようにして、戦後一貫して担われてきた日本側の責務は、果たしてバランスのとれたものであったのか、それとも、過剰なものではなかったのか、そうした面を含めての、憲法改正問題を考察する時期に至っているということでありましょう。