2023年7月24日〈月〉
隣の区のプールへ行ってきた。まずは、車で行って、様子見かたがた、とりあえずメンバーとなり、使用10回分を払ってきた。年金者割引で14ドル、一回1.4ドル(約130円)とはお安い。これまでのプール比べ、新設後一年くらいなのだが、現代風過ぎて盛沢山すぎ。
まずは試し泳ぎで700メートル、タイムは18分57秒。慣れていないせいか、片道が50メートル以上に感じる。それに、ケミカル投入量が多いのか、水がややしょっぱい。帰宅して再度のシャワーの際でも、塩素の残存臭が鼻につく。
次は自転車で行くか。
2023年7月27日〈木〉
走・泳のリズムが崩れたからか、この数日、はじりの調子が上がらない。今日も、気乗りのしない中、いつもより30分ほど遅れて、重い足取りで始めた。半キロほどゆくと、いつもはすれ違う大また歩きの常連さんに後ろから追いつくこととなった。追い越しといってもほとんど速度が違わないため、しばらく言葉をやり取りする。「やあ」と交わし合った後、「調子悪くて、ごらんのペースだ」と言うと、「いや、毎日、すごいことやってるね」と彼。
ここのところ、来月開催の恒例マラソン大会「City2Surf Sydney」の練習のためか、いつものコースを走る人が増えている。颯爽と走り去ってゆく彼ら彼女らの後姿を見ながら、惨め気分を味わされっぱなしだっただけに、彼のこのことばは嬉しかった。
往路34分丁度、帰路33分弱の計1時間6分51秒。
2023年7月29日〈土〉
もし、自分の健康作りの努力で何歳かの若返りが成功しているとするなら、その若返った年齢分で長生きをするというより、その若返り分を今のうちに生きておくということに充てたい。つまり、その年齢期を繰り返すということ。お金で言えば、貯金するのではなく、今、何かのために使ってしまうこと。お金の場合、浪費とも言われかねないが、健康の場合は蓄えがきかず、いまであるほど価値が高い。
努力して維持した健康余力を温存させ、それを小出しに使って――預金を切り崩して――より長い命とするのではなく、たとえ平均寿命程度であっても、その中身をより充実させることに役立てる。いうなれば、先送りでなく、いま使う。これを「年齢リピート」とでも呼ぼうか。
そして、その「より充実」したいこととは、若い世代へのこちらからの接近だ。これからを生きようとしている人たちとのやり取りを深め、自分が若い時にやってこなかった――というよりあえて無視していた――、老若間のコミュニケーションである。もし読者に、これに応えていただける方がいらっしゃるなら、ぜひ、一報をお願いします。
2023年7月30日〈日〉
上記の「年齢リピート」とは、言い換えれば、時間進行を遅らせることだ。同じ年齢をリピートするとは、例えば76歳をもう一度生きるということで、一年で二年分を生きるということ。つまり、健康しだいで、時間を作り出していること。
これって、これまで時間を時計で計ってきたことが、何やら虚構であったかと告げているごときだ。生きているとは、その瞬間、その時を、どういう中身の生き方をしたかの実感であって、その時間的長さなぞ、時計や暦で計ってみたとて、意味ないのではないか。
生きるとは、そういう自分がここに存在していることの味わいや充実感の総量のこと。それは計り様がないけど、実感は可能な量だ。重要なのは、もちろんその実感だ。
2023年7月31日〈月〉
ひさびさの10キロはじり。タイムは1時間23分30秒と悪くない。8キロに換算しても1時間6分48秒とさほど見劣りない。あとは、これが後遺症を残さないかどうか。
2023年8月1日〈火〉
いよいよ、バイアスロンの開始。自転車が往復6キロで約30分、泳ぎ800メートルが22分丁度。自転車の行きで結構な登りがあって、よいエクササイズが加わる。
2023年8月3日〈木〉
バイアスロン2回目。1000メートルで27分17秒。まあまあなタイム。行きの登りが大腿筋のいい付加運動だ。
2023年8月4日〈金〉
昨日、春を思わせる好天のもと、バイアスロンならぬ自転車通いでの水泳を終わらせ、春風を切りながら、自転車を走らせていた。そして思ったことだが、「この気持ちの良さは何なんだろう」。
そういうエクササイズ後の爽快感を、私はこれまで、自然に接して体を使う、そうした身体と自然環境とのコラボレーションと捉えていた。
そうに違いないのだが、今日、「フィラース」向けの「生命情報」の原稿を構想していて、あらためて「理論人間生命学」の「第一原則」を読み直してみた。そして、忘れかかっていた《生命創造性;Life Creativity》なるものを再度確認することとなった。
そうなのだ、その「エクササイズ後の爽快感」とは、それがその創造した産物なのだ。つまり、そういう爽快感の味を知っているから、次の爽快感を求め、それが健康度を高めてきているのだ。
これまで、やもするとそのエクササイズを「仕事」――義務的にでも持続する意義のあるものとの発想――と考えるといった、けっこう委縮したたとえをもって、その繰り返しへの時の気乗りのなさを捕えていた。
だが、エクササイズはそんな「仕事」の範疇に入れらるものではない。もっと前向きで、創造的な、《生命創造性;Life Creativity》活動の一環なのだ。
うすうすそれに気づいていたのだが、どうもこのリタイア生活を、通念に流された「暇もて余し」生活と自認しかかっている自分があった。
そうではない。これまでの積み重ねで、同じリタイア生活といっても、《生命創造性;Life Creativity》レベルにやってきた、そうした活動の一環としての、エクササイズなのだ。そういう、創造した産物としてのその爽快感なのだ。
あとは、そのルーチンを土台に、いかなる具体的な創造物を作って見せるかのパフォーマンスの次元なのだ。
そこで、その「理論人間生命学」の議論中で作成した以下の図を思いだす。
こういう創造するスパイラルを起こしながら、「感知」しているのが、その爽快感なのだ。