Day 170+260(5月22日)
ようやくにして、引越し作業のおおかたが終わりました。まだ、荷物の整理は残っており、かつ、新たな家での生活への慣れはまだまだで、まごつく日々が続いています。
やれやれです。
ところで、今度の引越し中に痛感したことですが、引越しという環境の変化への適応能力に、確かな《にぶさ》をしみじみと感じさせられました。何というのでしょう、新しい居住空間が、以前なら即時に自分の感覚に入ってきていたのですが、それがなかなかそうでないのです。ひとつ何かのクッションをおいたその先のような感じなのです。それに、いったん解体した元のさまざまな品々の存在感が、荷物を解いて配置しなおしても、かってのそれらの諸物の感覚がよみがえってこないのです。
どうやらこれは、自分の身辺に存在してきた無数の諸物のいちいち――ペンの一本々々から衣服の一着々々まで――についての記憶が微妙に薄れてしまっている、どうもそんなところに原因がありそうです。
逆に言えば、そんな無数の物々との無数の関連を、私たちの脳はつくり上げつつ生活しているんだと、その膨大な能力に驚かされてもいます。まさに、無くしてさとる有難さです。
環境が変わることがボケのきっかけとなるとよくいいますが、それとは、こういうことなのかなとも思われる現象です。つまり、記憶はボケはじめていても、物がもとの通りに置かれていれば、そうした物の存在がボケた記憶を補強してくれます。しかし、その物がことごとくに変えられてしまったわけですから、そうした補強はまったく働かず、その新しい環境に適応しようにも、旧現実と新現実のマッチがうまくつかない障害が生じ始めているようなのです。
そしてさらに深刻なのが、そういう自分にいらいらしている自分があることです。いわゆる老人のおこりっぽさの端緒はこんなところにありそうです。