「人生グルメ」という姿勢

読者からの逆質問に自問自答

前号の記事「日本的エコロジカル社会」を読んだ読者から、次のような質問をいただきました。

記事に「要は、ただただ平常心において、自らの自分らしさをを、どう発見しそれをいかに貫けるかの問題である」とあるが、その「自分らしさ」とは?

この質問は、いわば「それが分からんから苦労してるんだよ」とでも言いたげな、私への逆質問でもありました。

そこで、それに答えようと自問自答していて、ふと頭に浮かんだ言葉が、タイトルにあげた「人生グルメ」です。

その含みは、日々の暮らしに「グルメ」つまり「食通」への励みがあるように、自分の生き方に「人生グルメ」つまり「人生通」を求めるのもあるのではないかというものです。

本稿は、そんな魂胆についてのお話しするものです。ただ、ひとつお断りしておかねばならないことは、私の年齢柄、どうしても論調が上から目線風になりがちです。そうではありますが、あくまでもその趣旨は、「老若コラボ」とか「老若共闘」をねらいとするものです。

 

そこでですが、私がこうして「食」に手掛かりを探るのは、15年ほど昔、「六十の手習い」ならぬ寿司シェフ修行に首をつっこんだことにその発端があります。

以来、自分でも不思議に思えるほどに料理への興味を沸かせる結果となり、少しは「グルメ」世界の一員と自認してもよいだろうと思えるようになってきています。

であるならば、そうした「食のグルメ」なら当然考える、食材の「持ち味を生かす」、その「持ち味」こそが、まさに問われている、生き方における「自分らしさ」ではないか、と考えられることです。

 

確かに今日、加工食品や持ち帰り食がふえ、それに外食やらデリバリーも加えれば、何が食材でその持ち味は何かなどは、まったく思いすらしないで過ごせてしまっています。

同様に、自分自身の暮らし方、生き方においても、どこでもあまりにお膳立てが揃い過ぎていて、自分の持ち味が何かなぞを思いめぐらす以前に、はなから相応な道筋やコースが用意されています。

つまり、自分で自分を料理してみる、そんな体験や試みを欠いたところに、自分の持ち味など、分かりようもないというものです。

 

話しは大きくそれるのですが、この《食材とその持ち味》と《自分自身と自分らしさ》という一対の組み合わせが見えたところで、さらに連想を弾ませたいもうひとつの一対があります。それは、量子理論に関するもので、これまでにも幾度か議論してきた《局地的自分》と《非局地的自分》という一対です。

この今日の最先端科学に由来するいかにも難解な用語は、当然に説明するのも難儀なのですが、この前者の一対が出てきたところで、これを機会に、その難儀に挑戦してみたいと思います。

まず、《食材とその持ち味》を使って、この《局地的自分》と《非局地的自分》の違いを噛み砕くと、まず《局地的自分》とは、その持ち味へのこだわりなぞまずない、それこそお金を使うことで得られてしまう、売れ筋に味付けされた諸食品に当たると言えます。つまりこの「局地」とは、知らず知らずのうちに受け入れてしまってきている、そんな無思慮で他人任せで自分に無責任でさえある、閉塞場と言ってしまっていいかと思います。おそらく、今日の私たちの日常生活の大半は、こうした閉塞場がいたるところに広がっている、そうした場でおおむねが過ごされていると言えるでしょう。

その一方、《非局地的自分》とは、何らかの思わぬ非日常に出会って、そうした閉塞場つまりそういう局地から一瞬でも抜け出て、そこに見出される、なんとも爽快でフレッシュな自分の体験です。もはや「発見」にも近い自分自身です。

私も先日、そんな不思議な体験をしました。それは別稿『私共和国』の「TST Day 258(2022年12月10日〈土〉)」に記してあるもので、ぜひ、一読をお薦めします。

また、4年前、ヒマラヤでトレッキング中に体験したことも、同類のものと考えています。

要するに、「量子理論」と「自分らしさ」という、このどこから見てもまったく繋がりようもないこの両者が、その核心のところで、互いに同質なものを共有しはじめているのです。ちなみに、その互いに同質なものの一例が、「量子テレポーテーション」であり、私たちにおける「直観」です。この二者は、同じことが、違った形で表れてきていることなのです。

 

という次第で、なんとか機会を自分で用意し、「自分を料理」する体験を行うことで、こうした「局地」と「非局地」という二つの自分の分離を発見することができ、そこに、自分の持ち味、すなわち、「自分らしさ」に触れる道が開かれるというわけです。

想うに、そうした各個人の「自分らしさ」の取り組みが広がるところに、社会の多様性が生まれるであろうし、それを自然環境でみれば、植物から動物までもの無限の多様性をもつこの地球は、すでにそれを実在させてきている、みごとなモデルとなっているということです。

それはたとえば、蝶なら蝶、花なら花を見ても、その中にはそれこそ無限な種別と多様性があり、その独特さや美しさは、それがどのように生じてきたのか、考えるだけでももう驚異の世界です。

そんな、驚きと感動の広がる社会を築いてゆく手掛かりとして、自分の「人生グルメ」をこころざしてゆきたいと思う次第です。

 

 

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